南殿、北殿、正殿に囲まれた御庭は、さまざまな式典がおこなわれる空間だった。中でも最大とされるのが元旦の「朝拝御規式」である。
──午前4時。「ピーラルラー」と呼ばれる楽器による、ゆったりとした旋律が流れはじめる。これを合図に太鼓の音が響き渡ると、正装した王家の一族や役人たちが御庭に集まりはじめる。紫、黄、赤、青、役職ごとに異なる帽子が整然と並び、御庭は華やかに彩られた。やがて御庭が人々で埋め尽くされる午前10時。大きな日傘をさしかけられた国王が正殿から御庭に降りてくる。そして、全員で紫禁城の方角に向かって拝礼する。さらに、この日は島中から人々がお祝いをしにやってくる。入れ替わり立ち替わり御庭を埋め尽くす人たちに、国王は正殿の二階にある「唐玻豊」から顔を出して応えたという──
このように、たくさんの人たちが一堂に会する御庭である。赤と白のボーダーラインやタイル模様は人々がきれいに整列するための目印。中央の道は「浮道」と呼ばれ、15cmほど高く浮いていた。浮道は国王が歩く道であり、役人たちは跨ぐことも許されない神聖な道だった。
浮道に関してもうひとつ。あなたは気づいただろうか。浮道は正殿に対して垂直(90度)ではなく、約80度に傾いていることに。なぜ斜めになっているのか。浮道の先を見てほしい。正殿の反対側に見えるのは首里森御嶽。もしかすると浮道は国王という神様と、御嶽にいる神様を結びつける道であったのかもしれない。
冊封使が来たときには、どんな式典がおこなわれたのか。
──巨大な船が那覇港の水平線から姿をあらわす。空には祝砲が鳴り響き、港には大観衆が押し寄せる。船から降りてくるのは、はるばる中国からやってきた冊封使。その数、なんと500人。彼らは首里城に向かってパレードをする。街道は民衆で埋め尽くされていた。守礼門から歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門、奉神門を抜けて御庭にたどり着くと、いよいよメインセレモニーがはじまる。冊封使が「あなたを新しい国王に任命します」という中国皇帝からの手紙を読み上げると、国王はひれ伏してこれを受け取る。そして、盛大な宴会がはじまるのだ。たくさんのご馳走に、伝統芸能の披露、池を使ったボートレース=ハーリーまで。琉球は総力をもって冊封使をもてなした──
とはいえ、琉球と中国の関係はいわゆる「属国」ではなかった。こうした礼節さえ守っていれば、政治に干渉されることはない。それどころか、琉球が中国にもたらす貿易品の何倍もの価値をもつ見返り品が与えられ、軍事的にも守ってもらえる。名を捨てて実をとる。琉球にはそんな思惑もあったのかもしれない。