正殿に向かって右側は南殿。薩摩の役人を接待する建物である。壁面が色あせているように見えるかもしれないが、そうではない。あえて木に色を塗っていないのは日本式の建物だから。内部も畳の間が広がる和室であった。

正殿に向かって左側が北殿。冊封使をもてなす場所で、赤い色や丸い柱は紫禁城に見られるような中国式。日本式の南殿と中国式の北殿が睨みあっている光景は、まるで琉球が置かれた情勢を象徴しているかのようである。
ただし、冊封使が来るのは数年から数十年に一度。ふだんは北殿に「内閣」があり、官僚である政治家たちが日々の業務を行う仕事場として使われていた。

ここで、次の問いに答えてみてほしい。

「このたび、薩摩から『中国で織物を仕立てよ』との命令があった。それも『薩摩のマークを織り込んでほしい』という。しかし、中国に薩摩のマークを注文するのはいろいろと支障がある。まず、この命令が不都合である理由を挙げよ。さらに、役人の立場から王府に提案書を書きなさい」

これは実際に出題された下級役人になるための採用試験である。なんともリアルで実践的な問題だとは思わないだろうか。試験は年に一度。倍率0.004%。500人のうち1人か2人しか受からない難関だった。

外交には最高峰の頭脳が必要だ。琉球王府では、日々の難問に答えを出せる即戦力となる人材が求められていた。

──しかし、17世紀。琉球は薩摩に攻め込まれる。武力でねじ伏せられた琉球は、それ以降、薩摩の配下になる。ただし、琉球は中国の臣下でもあり続けた。薩摩の狙いは中国との貿易権を手に入れるためであり、表向きは琉球王国のまま、裏で貿易を管理するという立場をとったからだ。

この時代について、もう少し詳しく見ていこう。

薩摩に攻められたとき、琉球は中国からの援軍を期待していた。しかし、当時の中国は明から清へと移り変わる政変期にあり、あっさりと見捨てられてしまった。平和に慣れきっていた国民に戦意もなく、ほぼ無条件降伏した琉球は、薩摩に搾取されていくことになる。一方で、中国との関係も続けられたため、冊封使をもてなす資金も必要だった。しかたなく薩摩に借金をしているうちに財政破綻の目前まで追い詰められてしまった。

なにもかも薩摩のせいに思えるが、そうでもない。薩摩に支配される前から財政は逼迫していた。琉球の貿易とは平たく言えば「中国の代理店」だった。それゆえに中国の方針が変わり「貿易の自由化」が進むと代理店は不要になった。そのタイミングで薩摩がやってきて、さらに財政は悪化していったのだ。

しかし、琉球王国は薩摩侵攻からさらに250年以上存続する。日々降りかかる無理難題に頭をフル回転させていたのが歴代の官僚や難関試験を突破した下級役人たちだったというわけだ。

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