正殿は首里城の中心であり心臓部。

紫禁城のような赤い宮殿建築でありながら、正面には日本の「唐玻豊(琉球では“唐破風”という字は縁起が悪いとされた)」が。これもまた琉球の歴史を象徴しているような姿だが、琉球独自のものもある。たとえば、屋根の赤瓦。それに「龍柱」である。龍柱とは、正面の階段の脇にある龍の像。龍が何かに巻きつくことなく、真っ直ぐに立つその姿はほかの国では見られない。「長いものに巻かれるのではなく、あくまで自立しているのだ」そんな琉球の意思表示であると考えるのは主観が過ぎるだろうか。

龍は国王の象徴でもあるため、正殿のあちこちに描かれている。屋根の上にも龍があるが、龍は水の神様でもある。そのため火事よけになるとも考えられてもいた。雲の模様があるのも同じこと。雲もまた雨を呼ぶ。首里城は過去に何度か全焼したため、おまじないを込める意味もあったとされている。

──琉球は難しい舵取りを迫られた。しかし、琉球独自の文化が花開いたのもここからだった。日本と中国の板挟みになりながらも、両方の文化を取りいれて昇華させていったのだ。

この時代について、もう少し詳しく見ていこう。

薩摩の支配下にありながら中国の臣下として貿易を続けようとした琉球。しかし、琉球に薩摩の息がかかっていることなど、中国はお見通しであった。これまでは、2年に一度だった貿易を「次からは10年に一度とする」と中国から一方的に突きつけられてしまったのだ。

莫大な収入源である貿易を失っては財政破綻は避けられない。琉球は「なんとか、2年に一度に戻してほしい」と嘆願する。そのために何度も何度も船を走らせた。やがて根負けした中国は、2年に一度の貿易に戻すことを許可することになった……のだが、実は琉球は何度も懇願しにいくついでに、ちゃっかりと貿易もおこなっていたという。このような作戦もまた正殿や北殿で生まれていたことだろう。

また、日本に対しては「江戸上り」をおこなった。数年から数十年に一度、徳川将軍に挨拶に行くパレードのことである。琉球の王子を含めた精鋭たちが100人。船で薩摩に渡り瀬戸内海を通って大坂へ。陸路で江戸を目指す。往復1年がかりの旅だった。薩摩から「普段より中国っぽい服でよろしく」と言われていたこともあり、鎖国をしていた日本にとって琉球の人たちの姿形は異国そのもの。流行りもの好きの江戸ではガイドブックが刊行されるほどの人気を博した。琉球の人たちもまた旅の途中で歌舞伎や能などの文化を学んで持ち帰ったといわれている。

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