大交易時代といえども、時はまだ中世である。琉球王国の人にとっても、ほかの国から来た人にとっても、海に出ることは命がけであることに変わりはなかった。「上り口説(ぬぶいくどぅち)」という唄にはこんな一節がある。

『沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣 袖と袖とに露なみだ』

これは船を見送る者の心境をあらわした唄だが、ときに船が嵐にのまれたのか、家族の大黒柱である夫が帰らぬ人となることも多かった。残された妻や子供はどのようにして生きていけばいいのだろう。

そのための救済施設がこの地にあった。「堂小」とは東寿寺のことで、波之上にある護国寺の末寺であるという説も。その小さなお堂を駆け込み寺にして──離縁を目的とした本土の駆け込み寺とは意味合いが異なるが──暮らしていたのだ。もちろん、新しい家や仕事が見つかれば出ていくわけだが、このお堂に救われた遺族も少なくないことだろう。
沖縄ではあまり知られていない寺だが、果たしていた役割は大きいのかもしれない。

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