温泉が賑わいはじめると、政府は「湯番徒」という役人を置いて税金を徴収するようになる──

18世紀、大陸側の本格的な埋め立て工事もはじまり、海の上に浮かぶ湯島がどんどん近くなっていく。そして、19世紀には橋が架けられて湯島に歩いて渡れるようになる。このように便利になるにつれてますます客足は増え、しまいには商人が温泉を樽に詰めて大坂や江戸にまで運ぶようになった。

しかし、温泉が繁盛するにつれて何かにつけて取り締まろうとする湯番徒との対立は深まっていく。たとえば、温泉を樽詰めするには湯番徒による承認印が必要とされた。ハンコがないと偽物として取り締まりにあうのである。このような締め付けが続いたことから、こんな唄がうたわれた。

『面の憎いやつァ小島の湯番徒 うみにけこめや 二十日のやみに あげるふりしてまたけこめ』

実際に、町の相撲経験者が湯番徒を突き落としたという逸話も残されており、確執は相当なものだった。泥沼の争いは200年にもおよび、決着がついたのは体制が変わった明治5年。和倉の人たちは大量の「手切銀」を支払ってなんとか温泉の権利を買い戻したのであった。

そして、停滞していた再開発も動き出す。橋渡しであった湯島はついに陸続きとなり、公衆浴場として初代「総湯」も建てられた。続いて弁天島まで埋め立てが進んで陸続きに。弁天島は弁天崎と呼ばれるようになった。

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