もとは高い場所にある宮と書いて「たかのみや」と呼ばれ、まつられているのは、正宮と同じ「豊受大御神」。
なぜ同じ神様を別々にまつっているのかといえば、神様には「和御魂」と「荒御魂」があると考えているから。簡単にいえば、和やかでおだやかな面と、荒々しくて活動的な面。同じ豊受大御神でも、荒々しい面をまつっているのが多賀宮である。これは内宮でも同じようになっている。
食は人間にとって欠かせないもの。しかし、どれだけ科学が発展しても創り出せるものではない。自然の助けが必要であり、神様の助けがないと生み出せないものである。とくに昔は農業も漁業も神頼み。田植えの前にお祭りをして、田植えの最中にお祭りをして、台風が来ないようにお祭りをして、収穫の感謝をこめてお祭りをする。相撲や歌舞伎もルーツをたどれば豊作を祈る行事である。日本中どこに行っても神社があり、どこに行ってもお祭りがあるのは、みんながそれを願っていたから。
現代では食べることに困らない。そのためか、「食べること=生きること」という概念が薄れている。そして、人は感謝を忘れ、神に祈ることも少なくなってしまった。しかし、食べることができているということは「当たり前」ではないのかもしれない。そのことに気づいたとき、再び感謝の気持ちが湧いてくる。神様の「おかげさま」で食べていける、生きることができている。そのことに気づくのだ。日本人にとって「神に祈る」とは、何気ない日常を影で支えてくれている存在を再確認することでもあったのかもしれない。
「食べる」の語源は「賜ぶ」。神様に賜ること。食事とは神事である。日本人は食事の前に「いただきます」と言って手をあわせる。その意味を思い出させてくれるのが外宮での参拝といえるのかもしれない。