年間800万人の人が訪れる伊勢神宮。あまりに多くの人が宇治橋を歩くため、床板の木が20年で「6cm」も磨り減っていたという。「20年で」というのは、20年に一度、伊勢神宮の遷宮にあわせて宇治橋もまた新しく架け替えられているからだ。
内宮は右側通行。真ん中を歩かないのは自分より神さまを尊重する気持ちから。左ではなく右側なのは、参拝前のお清めをする「御手洗場(みたらし)」が右側にあるためといわれている。
宇治橋を渡っていく途中で「橋脚のようなもの」が見えるはずだ。これもいわゆる遷宮のためかと思えば、そうではない。実は「木除杭」と呼ばれるもので、ときおり川から流れてくる流木を食い止めるもの。宇治橋が壊れてしまわないように守っているものなのだ。
橋は、端と端をつなぐもの。宇治橋は、神と人を結ぶ「架け橋」である。とはいえ、日本人にとって神様とは伊勢神宮だけに存在するものではない。日本では「八百万の神」といわれ、神様はあちこちにいると考えてきた。そして、畏れながら敬ってきた。この感覚を思い出してほしい。
たとえば、日本人は言葉の響きに敏感だ。昔でいえば、「お箸」が「端」では縁起が悪いからと「お手元」と呼んでみたり。現代でいえば、試験の前に「落ちる」という単語を使わないように気を遣ったり。ホテルの部屋番号に「4」という数字を避けるのは「死」の響きが感じられるからだ。まるで空気の中にも神様がいるように畏れながら慎んで生活する。この感覚こそ「万物に神が宿る」ということではないだろうか。
とにかく、山に、森に、川に、田んぼに、海に、岩に、数え切れないほどあちこちにいる八百万の神。そのすべての神々の頂点に立つともいわれるのが、内宮でまつられている「天照大御神」だ。くれぐれも失礼がない格好で、と念を押されるのはそれほど畏れ多い場所に立ち入ろうとしているからなのだ。