仁淀川のまわりにはキャンプ場がたくさんある。
レンタカーを借りたならば、ぜひ仁淀川の本流をさかのぼるルートを選んでみてほしい。具体的には、国道33号線をひた走るのではなく、伊野駅を過ぎたところで「国道194号線」へ。その後、左折して「県道18号線」を走るルートのことだ。
すると、仁淀川の流れに沿ってドライブすることができ、途中で「黒瀬キャンプ場」「スノーピークおち仁淀川」「本村キャンプ場」など、さまざまなキャンプ場を経由することになる。そして、「宮の前公園キャンプ場」のあたりで国道33号線と合流。
さらに上流にもキャンプ場は続いている。
といっても、キャンプ道具など持っていない……そんなぼくたちにピッタリだったのが「スノーピークおち仁淀川」。テントをはじめとするキャンプ道具のすべてを借りることができ、まさに「手ぶらでキャンプ」が楽しめるのだ。テントはちょっと……という場合も心配ない。ここには「住箱 - JYUBAKO-」という快適なロッジがあるほか、清潔なトイレやシャワー室も完備。きれいに整えられた芝生もふくめて、ビギナーでも安心してキャンプができる。
それだけではない。スノーピークおち仁淀川は、ぼくたちがキャンプ場を見てまわった中でも、一、二を争う絶景だった。見渡すかぎり人工物が存在しない大自然。それでいて、きれいな設備があることや、スノーピークのスタッフや他のお客さんの気配があることに「安心」できる。いつ獣に襲われるかというような余計な心配をしなくていいから、本当の意味でリラックスできるのだ。ちなみに、コンビニやスーパーも車でわずか10分ほどの距離にあるので食べ物に困ることもないだろう。
さて、キャンプ場に着いたらまずはテントを設置するはずだが、キャンプといってもほかに「やるべきこと」などなにもない。「大自然に身をゆだねて、ただ、くつろぐだけでいいと思います」とキャンプのコーチは教えてくれた。でも、「大自然に対する身のゆだね方」がわからない。そう思ったぼくたちは“人間離れ”し過ぎてしまったのか。そんなとき、どうすればいいかをさまざまなコーチに聞いてみた。
芝生のチクチクも、小石のゴロゴロも、自分の足で感じてみよう。ふだんは靴の中に閉じ込めてしまっている触覚を解放すると「気持ちがいい」。気持ちがいいと感じることは、本能的に「いいこと」であるはずだ。人間が靴を履きはじめたのは人類史でいえば、つい最近の話。もっといえば、もともと人間は四つ足の動物で手と足を同じように使っていたはずだ。もしかすると現在の触覚は手に偏りすぎているのかもしれない。
パソコンやスマホばかり見ている生活からすれば、仁淀川のはるかなる山の景色を見るだけでも、目の奥のほうにある筋肉がほぐれていくような感覚がある。せっかくなら「スケッチ」をしてみてはいかがだろうか。スケッチをすることは「物をよく見る」ということ。とあるコーチは言っていた。「ぼくは毎日スケッチをしている。なぜか。1日1回、何かに感動する自分でいたいからです」と。
自然に入るときは、思いっきり鼻で息を吸って口から吐く。それを何度も繰り返す。新鮮な空気が鼻の中を通って、脳に直接送り込まれるように。これが自然に入る時の儀式だと、とあるコーチが教えてくれた。においは記憶や感情と結びついている。木々の触れあう香り、水しぶきの香り、昔は山の一部だった石の香り。これらを嗅ぐと、人間の奥底に眠っている太古の記憶、感情が呼び戻されるような気がする──
「川のせせらぎ」とは、どういう音なのか。サラサラ? ザーザー? ゴウゴウ? 擬音で表現できるだろうか。もちろん正解などない。同じ仁淀川でも、時期によって、場所によって、時刻によって、さまざまな「自然の音」が聞こえるはずだ。深夜や早朝を待つ必要はない。車の音がほとんど聞こえないこの場所で、ふと、純度100%の自然の音に耳をすませてみてほしい。
覚えておいてほしい。仁淀川ほどの清流であっても基本的に川の水は飲めない。上流から流れてくるあいだに排水や魚のフンなど、目に見えないさまざまな物質が溶け込んでいるからだ。では、「仁淀川の水」はどこで飲めるのか。「蛇口」である。このあたりの水道水は仁淀川の伏流水=湧き水のようなものが使われている。安心して蛇口の水から「仁淀川コーヒー」を淹れてみてほしい。
キャンプの効能は「人間らしさを取り戻す」というようなスピリチュアルめいた話だけじゃない。
たとえば、キャンプ場に来ると自然と隣のテントの人に挨拶をする。たとえ、マンションの隣の住人に挨拶をしない人であっても、キャンプでは自然とそういう雰囲気になる。ほかにも、醤油を買い忘れて貸してもらうことがあるかもしれないし、余った食材をおすそわけしたくなることもあるだろう。それって、ちょっとした田舎暮らし。キャンプとは、パーソナルになりすぎた都会の不自然な暮らしから、昔なつかしの自然な暮らしを思い出させてくれるようなアクティビティなのかもしれない。
そして、もうひとつ。キャンプに行くと「自然に癒される」という人が多いが、それは、どういうことなのだろう。もしかすると、自然の中に身を置くことで「植物」や「昆虫」に目が向くようになるからかもしれない。その生態について「どういう生き物なんだろう」と考えはじめると、植物を通せば人の一生を越えたマクロな時間を、昆虫を通せば人からすれば儚いミクロな時間を持つことができる。ようは、植物や昆虫と人の人生を重ねあわせたりしているうちに、時間のスケールが大きくなるのだ。その結果「人間もまた自然の一部。ありのままでいいのだ」ということに行き着いて、ホッと安心するのではなかろうか。
と、まあ、時間にゆとりがあるからいろいろと考える時間がある。何を考えるかは人それぞれだが、「アウトドア」というふだんと違う環境に身をおくことで、「なぜ?」という疑問が増えることに違いはない。それに、突然の雨や気温の変化に対しても、都会ではしばらく使っていなかった脳みそを使わなければならないし、想定外の出来事によって失敗もするかもしれない。きっと、これから先に続くあらゆるアクティビティも同じこと。トライする、失敗する、原因を考えて、もう一度、チャレンジする。その体験は思考に満ちている。
アウトドアとはつまり、物事を自分で考えることを思い出させてくれる体験なのだ。