ここは、どんな場所なのか。「安徳天皇陵墓参考地」つまり、天皇のお墓である。しかし、なぜ京都から遠く離れた高知の山奥に天皇のお墓があるのか。その物語を紹介しよう。

平安時代末期、平清盛は自分の娘に天皇の子を産ませることで、さらなる権力の拡大を目指していた。もくろみ通りに赤ちゃんは生まれ、平清盛は孫をわずか1歳にして天皇に即位させた。「安徳天皇」の誕生である。しかし、こうした強引なやりかたに人々は不満を募らせ、1180年に源平合戦がはじまる。次第に劣勢に追い込まれた平家は京都から逃亡。幼い安徳天皇を連れ出して四国の屋島を拠点とする。しかし、追っ手を差し向けられて屋島は陥落。「壇ノ浦の戦い」によって平家は滅亡する。「平家物語」では、その最後はこう語られる。

敗北の知らせを聞いたとき、安徳天皇は船上で祖母とともにいた。まだ6歳であった安徳天皇は「これからどこにいくの?」と祖母に聞いた。祖母は涙ながらにこう言った。「あの波の下には極楽浄土という都があるのです。そこにあなたを連れて行くのですよ。」安徳天皇はその意味を察して祖母とともに入水して亡くなったと言われている。

しかし、物語はそこで終わらない。

なんと、安徳天皇は生きていた。そして、四国を転々とするうちに横倉山に辿り着く。そして、21歳で病気で亡くなるまで横倉山で暮らしたと言うのである。「安徳天皇陵墓参考地」は安徳天皇が京都をしのんで蹴鞠をしたとされる場所であり、「横倉宮」は、安徳天皇の死後、その魂を鎮めるために建てられたもの。それが本当だとすれば、安徳天皇は仁淀川の流れに何を想っていたのだろうか。
仁淀川のまわりには平家の生き残りに関する伝説がたくさん残されている。

具体的には、安徳天皇の一行はまず「椿山」に隠れ住んだ。しばらく滞在したのち、川を経由して「都」という場所に天皇の御殿をつくった。都と横倉山を結ぶ古い道には「中宮」という高貴な地名も残されており、そこを通って横倉山に辿り着いたのかもしれない。椿山、都、中宮。この3つをGoogleマップで探すだけでもかなりの山奥であることがわかる。このあたりには1000年前から「修験者」がいたので、山道を知り尽くした彼らが一行を案内した可能性もある。

彼らが逃避行したルートを辿り、新たな伝説を探しにいく旅もまた仁淀川の秘密に迫ることになるだろう。

1|「横倉山自然の森博物館」で予習

開館時間/9:00~17:00
休館日/毎週月曜日(祝日の場合は翌日)

2|「横倉山第三駐車場」まで車移動

※目的地までかなりのショートカット

3|徒歩15分で「杉原神社」に到達

※鳥居のような2本の杉が印象的

4|さらに徒歩30分で「横倉宮」に到達

※道は整備されいて歩きやすい

5|横倉宮の裏には「馬鹿だめし」が

※絶景が見られるが危険

6|さらに徒歩10分で「安徳天皇陵墓参考地」

※高知県で唯一の宮内庁管轄

ぼくたちが横倉山を登った日は雨が降っていた。「ザーザー降り」というわけではないが「パラパラ」というよりは本格的。車のワイパーでいえば、1段階では足りずに2段階目にするぐらいの雨だった。

しかし、それくらいの雨ならば、トレッキングによってびしょ濡れになることはなかった。なぜか。横倉山はそれほど山深いからだ。晴れた日の木々は太陽に向かって枝を伸ばして葉をかざす。そのおかげなのか、雨の日も森の傘に覆われてぼくたちが濡れることがなかったのだ。しかも、ぼくはサンダルでトレッキングをしていたのだが、ふかふかの土や落ち葉が雨水を吸いこんでいるのか、素足が濡れることすらほとんどなかった。

それに、雨の日にトレッキングするような物好きはぼくたちをのぞいて誰もいなかった。横倉山の神秘的な気配は雨の湿度とともに色濃くなる。もちろん、足元に気をつけなくてはならないが、雨の日こそ横倉山のような森をトレッキングするのもアウトドアの醍醐味かもしれない。

ただ、「馬鹿だめし」から観る絶景は晴れた日に見たかった。

馬鹿だめしとは“4億年前”の石灰岩でできた高さ約80mの絶壁。この絶壁にしがみつくように登っていくと、横倉宮がいかに象徴的な場所にあるかわかるものだ。が、それとは関係なく、こんなところをクライミングするやつは「馬鹿者」であり、それを試すような意味で名付けられたという。これがかなりのエクストリームで危険度MAX。「ロッククライミング」というアクティビティもできるよ、などと、こんなところでオススメしてはならないほどに。

さらりと出てきた“4億年前”という数字は日本で最古に近く、赤道付近にあったサンゴ礁がプレート移動して隆起。横倉山になったといわれている。仁淀川を支える岩盤はそれほど古くて硬いものなのだ。

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