実は、江戸時代の人たちも「ラフティング」をしていた。といっても、遊びではなく仕事。舟運である。
明治時代に道路が敷かれるまでは仁淀川こそが重要な輸送路だった。運ばれていたのは主に材木。加えて、土佐和紙の原料となるコウゾやミツマタも山で育てられ、職人が集まる下流域の伊野まで運んでいた。
大きな舟は、2000キロの丸太を運んでいたともいわれ、流れがよいときにはその日のうちに現仁淀川町の川口から伊野まで運ぶことができた。とはいえ、たいていは2日かかり、鎌井田などで一泊していたという。
その舟には「前乗り」と「後乗り」の二人が乗っていて、前乗りが舵をとる。川は岩や瀬などの障害物だらけ。かなりの技量が求められる。なんとか下流の目的地に到達したとしても、また上流まで戻ってこなくてはならない。木材を降ろしたかわりに、塩、醤油、米、酒などの日用品を積み込んで、後乗りは河原を歩きながら縄を肩にかけて舟を引き上げる。前乗りは舟が岸に引っ張られないよう舵をとった。 行きは1日~2日なのに対して、帰りは6日~10日かかるというから相当な重労働。 流れが急なところは前乗りと後乗りが協力して舟を持ち上げたり、ほかの船乗りも協力してみんなで担いだともいわれている。
昔の仁淀川では彼ら「筏師」がラフティングのように川を下っていく光景が毎日のように見られたことだろう。