江戸時代、仁淀川の上流では和紙の原料となるコウゾの木を育てていた。

その時代に「天明の飢饉」が起きた。藩主の財政も苦しくて、これまでは収穫の半分を差し出せばよかったものを、ぜんぶ差し出させるような命令を出した。これに反発した池川の農民601人が「安の河原」に集まって一揆を起こした。そして、松山藩にあたる久万高原町の大宝寺に逃げ出した。

その後、和尚による藩主への説得もあって、彼らは罪に問われることなく土佐藩に帰ってきた。それまでのあいだ、松山藩の人たちは彼らのために6トン以上のお米を運んで食べさせてあげたとか。

逆に久万高原町の人がこちら側に逃げてきたという話も残されており、ふたつの藩の国境に位置するこのあたりでは、いざというときは持ちつ持たれつの関係で助け合っていたのかもしれない。

Next Contents

Select language