ここに来ると、ぼくたちが「トレッキング」と呼んで登る山々がいかに人の手が加えられたものなのか、よくわかる。聖神社は崖の中にある修験道の神社であり、それ以外のことは何も伝えられていない。そのまま人々に忘れられ、建物も倒れかけていたところを、ある個人が役所の力も借りずに、たったひとりで建て直した。さらに山道まで整備して現在まで守り続けている。
ぼくたちはその方に直接、聖神社を案内してもらったのだが、口数は少なくとも、そのまなざしは愛情に満ちていた。
修復のための資金も労働力もすべて自腹である。なぜ、そこまでやるのか。そう尋ねてみても「やるならトコトンやらんと気がすまんタチやき」と言って、それ以上は語ろうとしなかった。しかし、聖神社を俯瞰して最もよく見える展望台を作ったり、そこに至るまでの道をなるべく最短距離で行けるようなコースにしたり。大自然の山を何日も歩いて整備したというその努力は並大抵ではない。
しかし、その方の後を継いで聖神社を守ろうとする人物は現在、見つかっていない。かろうじて残された山道を歩けるのも、そこで本物の自然、本当のトレッキングとは何かを感じられるのも、あとわずかなのかもしれない。