壺屋に103人の職人たちが帰ってきた(続いて、住宅を整える設営隊も牧志に入った)。

ただし、米軍の厳しい監視下におかれ、決められたエリアの外に出ることはできない特例措置だった。

しかし、この特例は大きな前例になった。男のみであった職人たちに続いて、その家族もまた壺屋で暮らすことが許されたのだ。そうなると、壺屋はひとつの村が復活したようなもの。行政機関としての区役所もこの場所に設置されることになった。

壺屋に戻ってきた家族の中には子どもたちもいた。そこで、区役所に続いて、小学校も誕生する。すると、いち早く復興が進む壺屋に「われもわれも」と人が集まりだした。

その中には、戦前まで那覇港がある「旧那覇エリア」に住んでいた人も含まれていた。旧那覇は軍港に近すぎるため、依然として立入禁止のまま。彼らには帰る場所がなかったのだ。

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