ちょうどここから大きな段々畑の跡が見える。一時期は棚田でもあったらしい。

知夫里の農業の歴史を見てみよう。はじめは鍬で畑を耕していた農家はやがて牛を使って耕すようになり、さらなる効率化を求めて「牧畑」が盛んになる。わずかに田んぼもあったが、米は貴重で正月に食べるようなものであった。実に大正末期まで、知夫里の人たちの主食は麦や粟。米ではなかったのだ。

その後、農機具などの進化によって知夫里でも田んぼが育てられるようになる。一時期は「27ヘクタール」まで拡大したものの、1973年には田んぼを減らそうとする国家政策がはじまり、知夫里の田んぼも減少。追い打ちとなったのが「1977年の豪雨」である。知夫里の田んぼは壊滅的な被害を受け、「2ヘクタール」にまで減少したという。

それでも田んぼを続けようとした農家もいたが、これまでいろんな田んぼの稲をつついていたスズメが集中するようになり、収穫どころではなくなった。こうして、ついに知夫里から田んぼが消えてしまったという。

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