無量寺はもともと港の近くに建っていた。が、大地震が起き、津波で本堂が流されてしまう。それから時は流れ、時の住職であった愚海が、やっとの思いで本堂を再建。愚海はかねてより応挙と親交があり、本堂が完成した記念に「襖絵を描いてほしい」と依頼した。しかし、人気絶頂の絵師であった応挙は忙しく、京都から離れることができない。そこで、代役として弟子を派遣することにした。その弟子の名は「芦雪」。無量寺の襖絵の物語はここからはじまるのである──

ところで、本堂には6つの部屋がある。次の図を見てほしい。

中央の奥にあるのが「仏間」。大切な仏さまの像を置く部屋である。その手前にあるのが「室中之間」。仏像を前にして、さまざまな儀式をおこなう部屋である。さらに、そのまわりに4つの部屋がある。上間一之間、上間二之間、下間二之間、下間一之間。中でも、最も格式の高い部屋が「上間一之間」。まずは、この部屋の襖絵から順番に見てほしいと思う。

また、先に「応挙は忙しかったので代わりに弟子の芦雪を派遣した」と紹介した。が、そのことを証明する資料があるわけではない。むしろ、ぼくたちが話を聞かせてもらった住職は「応挙の奥さんの体調が芳しくないため京都から離れられなかったのではないか」と想像していた。

ここである。

江戸時代の歴史に確かな資料などほとんど残されていない。それが、絵の解説となればなおさらだ。だからこそ、ここにある絵をどう解釈するかはあなたの自由だ。ぼくたちは、無量寺で15年勤めた住職の言葉をもとに解説したいと思う。

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