串本という環境がこのような絵を描く気にさせたのか、芦雪はここに大自然を描いた。が、あの虎の絵とはずいぶん雰囲気が違う。むしろ、応挙が描いた仙人の絵のように精密なタッチで描かれている。
右から順番に視線を移してみてほしい。描かれているのは、魚、猫、岩、薔薇、鶏など。たとえば、岩の描写を見てほしい。あえて襖が直角に交わるところに岩を描くことで、立体感を演出している。このようなアイデアも応挙ゆずりである。
ところで、左端には不思議な形をしたハンコが押されている。これは「氷形印」と呼ばれ、芦雪は自身を「魚」と称した。なぜか。こんな逸話がある。
ある寒い冬の朝、芦雪が歩いていると小川の表面が凍っていた。それもよく見ると、氷の中に魚が閉じ込められているではないか。しかし、しばらくして帰り道に再び通りかかると、氷はすでに溶けていた。魚も自由になれたのか、あたりを自由に泳ぎまわっていた。そのとき、芦雪は思った。「自分は今、応挙の画風に囚われて自由に絵が描けていない。あの魚と一緒だ。いつか氷が溶けたなら、そこから抜け出して自由に泳ぎたい。自由に絵が描きたい」と。芦雪のハンコにはそんな想いがこめられているという。
とすれば、である。襖絵の右側には、魚と、それを狙う猫が描かれている。魚といえば芦雪。猫は? といえば、応挙の存在を暗示しているのかもしれない。芦雪(=魚)は師匠である応挙(=猫)に睨みつけられて動けずにいる。そんなメッセージかもしれないと言うのである。「いやいや」と、またある人は言う。「あの大胆な虎を描いた芦雪である。魚である芦雪が “ここまで来てみろよ” と煽っているのではないか?」と。
このように、解釈は人それぞれ。あなたも自由に想像をふくらませてほしい。
無量寺にある襖絵は、芦雪が33才のときに描いたもの。この時代の芦雪の作品には「氷に囚われた魚」のハンコが使われている。しかし、数年後。30代の終わり以降の作品のハンコは “右肩が欠けている”。つまり、氷が欠けているのである。これは何を意味しているのか。ついに、応挙の画風から離れて自由に絵が描けるようになったことを表しているのだろうか。この先の部屋で急変する絵の爆発ぶりからして、芦雪は無量寺に来て、何かを掴んだ。もしかすると、あの虎の絵が描けた瞬間に氷は溶けはじめたのかもしれない。