部屋の隅にネズミがいる。それに気を取られてよそ見をしている子、習字だというのにラクガキをしている子、居眠りしている子、の顔にラクガキしている子、手に炭を塗って遊んでいる子。今でもクラスにひとりはいそうな光景で、見れば見るほど楽しい。子どもたちの賑やかな声が聞こえてきそうだ。
途中で犬があらわれる。人間の赤ちゃんと犬の赤ちゃんが同じ姿で座っているシーンもあり、じっと見ていると同じことを考えているような気がしてくる。しかし、さらに左に視線を移していくと、人間の子は協力して絵をつくりだしている。が、犬の子はハケを使ってじゃれあっているだけ。犬の子と人の子は違う。そのことを対比して強調させているようにも見える。「これにもまた意味があるのかもしれない」と住職は言う。
無量寺は禅宗のお寺なので「禅問答」という修行をする。たくさんの哲学的な問題を何年もかけて師匠と一対一で考えていく修行なのだが、その第一問目に「趙州の犬」という問題がある。
趙州という名前のお坊さんが弟子たちに、こう問いかける。「おまえたちは自分の心の中に仏性があると考えて、自分を見つめる修行をしている。では、そこにいる犬にも仏性はあるのか?」と。あるのか、ないのか、だけではなく、「無」とはどういうことか。そこまでを哲学するのが「趙州の犬」という問題である。
禅のことを知らなければ「ワンちゃんがカワイイ」としか感じることができないかもしれない。しかし、無量寺で禅の修行を続けて来た住職であれば「趙州の犬」というお題が、絵に落とし込まれていることに気づいたりする。芦雪もまた禅の修行をしていたので「修行している人なら気づくだろ?」と問いかけているのではないか。その意味でも、ぼくたちが考える以上にたくさんの内容が絵に詰まっているといえよう。
最後に、左端に描かれている子どもを見てほしい。どこかに走り去っていくようだが、天に向かっているようで、どこか物悲しくも見えてくる。これを、芦雪自身の子どもではないかと見る説もある。芦雪はここにくる前に流産で男の子を亡くしている。が、ここはお寺。無量寺の襖絵に我が子を描くことで供養しようとした面もあったのかもしれない。
虎の絵と、その裏面に描かれた猫の絵が呼応している。とすれば、龍の裏面はどうなっている? そう考えたくなるのが自然である。
実は、裏面にも龍がいる。探してみてほしい。ヒントは、龍は水の化身であるということ。水と関係がある場所を探してみてほしい。
たとえば、花瓶。その陶器は龍が巻きついたような形をしている。そして、硯の水差しのような水に関係があるものはすべて龍が描かれた花瓶と同じギザギザの線で描かれている。「そこまで気づいているか?」と芦雪がいたずら心を示しているのかもしれないし、そうではないかもしれない。
ちなみに、かつて岡本太郎がこの絵を見たときに、このように言ったという。「とても細かくたくさんの内容が書かれている。絵の上手い人がゆっくり描いたら描けるかもしれないが、ぼくは絵描きだから筆の速さがわかる。この絵は、とても速い。これだけのスピードでこれだけの内容を描きつけるなんてスゴイ。スゴイとウマイは違う。芦雪はスゴイ」そう漏らしたそうである。