和歌山に帰った熊楠は、その年の10月のうちにアメリカ留学を決意しています。病を理由に退学した熊楠が、どのような経緯で短いうちに留学を決めたのかは明らではありません。明治20年(1887年)1月、19歳の熊楠はサンフランシスコに上陸します。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学したものの2日目には学校を欠席し、数ヶ月で退学。8月には大陸を横断し、東部のミシガン州へ向かいました。あらためてミシガン州立農学校に入学しましたが、ここでもやっぱり授業には取り組めません。ミシガン大学の博物館を見学し、ヒューロン川のほとりで植物採集にいそしんでいました。農学校も翌年には退学し、学校に籍は置かず、独学で学生生活を送ることとなります。
ミシガン大学には当時多くの日本人留学生が通っていました。熊楠の日記の中には40名ほどが登場しています。展示されている《珍事評論》は、そんな日本人留学生に読ませるために、熊楠が手書きで作った個人新聞です。第一号は明治22年(1889年)8月、二号はその翌月、さらに三号を翌年の9月に発行したといわれていますが、三号の実物は未だに発見されていません。内容は現代のブログのようなもので、学生の間で起きた事件を冷やかしながら伝えています。
上から二段目の右手に登場する留学生「小野英一郎」は、本名・小野英二郎。後の日本興業銀行総裁であり、オノ・ヨーコのお祖父さんでもあります。熊楠は「勉強列伝」の筆頭に彼の名前を記していますから、きっと一目おいていたのでしょう。しかし小野は、熊楠のことをよくは思ってはいなかったようです。後年、息子・俊一が留学するとき、「社会主義に染まるな、外国人を娶るな、熊楠のようになるな」と名指しで釘をさしています。しかし結局、俊一は父の生き方に反発し、学位も取らずに帰国。京都帝大動物学教室の助教授に赴任したものの一年足らずで退職し、その後は在野のアマチュア研究家になるという、まるで熊楠のような人生を歩むこととなるのです。