胡瓜、越瓜、巾着なす、わらび、そして、錦糸瓜。歯切れのいい音とは、まさにこのこと。

聞きなれない名前が多いのは、すべて、この土地で採れた野菜を漬物にしているから。はじめての食感とともに八海山の酒粕の甘さが口いっぱいに広がり、野菜のみずみずしさが塩っぱさを程よく緩和してくれる。と、口で言うより、一刻も早くお裾分けしたくなる漬物である。

「何か特別なことをしているわけではないんですよ」

と、今成さんは言うのだが “特別なことをしないこと” それ自体が特別だ。たとえば、ちまたの漬物には賞味期限を伸ばすために特別な添加物が入っている。が、今成さんは言うのである。「酒粕と塩と砂糖だけ。酒粕がついていれば殺菌してくれますから」と。

特別な工場で特別な機械を使っているわけでもない。今成さんが暮らしている家の裏に蔵があり、昔ながらの木桶を使って、昔ながらの手作業でひとつひとつの野菜を漬け替えている。しかし、だからこそ創業100年ぶんの酵母が熟成された味わいを醸し出してくれる。

あまりに自然に作られているため大量生産は不可能。インターネットで買うこともできない。お客さんのあいだでも「この味を知られたくない」とひた隠しにされている山家漬(やまがづけ)。その秘密を雪国を訪れたあなたにだけお教えしよう。きっと、永久に忘れられない味になるはずだ。


住所:南魚沼市六日町1848
電話:025-772-2015
予算:1,600円〜
URL:http://ag304.jp/kakou/yamayazuke/

──人間の食にほんとうに大事なことって何だろう?
今成漬物店・今成さんのインタビューに続く↓


──今成さんにとって「A級グルメ」とは?

私たちも「永久に残していきたい」という気持ちでやってきましたのでぴったりでした。うちの漬物でなくても、この土地に根差した残すべきものが日々消えつつあることを感じていますので。

──「山家漬」とは、どんな漬物ですか?

酒粕につけた漬物なので「奈良漬」に近いです。雪国には美味しい野菜も酒粕もありましたので、この土地でも同じ漬物ができるだろうと、最初は奈良漬の真似をして作りはじめたと思うんです。なので、奈良漬と呼んでいただいてもいいんですが、私たちとしては、この土地でしかできない味、奈良漬とまた違うものだという意識もありまして「山家漬」と呼んでいます。

──奈良漬との違いはどういうところが大きいですか?

奈良漬は数年かけて漬ける場合がありますよね。うちは野菜そのものが持つ歯ごたえや、みずみずしさを重視していて、何年も漬けないようにしてるんです。というのも、雪国には春の山菜や野菜を漬けておいて冬に食べるという「一年間の保存食」という考えがベースにありますので。

──なるほど。冬を越すための漬物だったんですね。

はい、次の年にはまた美味しい野菜が採れますので。それに、野菜はだんだん悪くなってしまうじゃないですか。だけど漬物にすれば一年持つ。そのうえ発酵して美味しさも増して、栄養価も上がるんです。

──漬物のもとになる野菜はこの土地の野菜なんですか?

はい、もうすべて。たとえば、越瓜は六日町で採れたものなんですが、それは今のご主人のお父さん、おじいさん、ひいおじいさんと、何代も前から同じ農家さんが作ってくださっているんです。酒粕もうちはずっと八海醸造さんから。酒粕の中でも純米吟醸の酒粕を分けてくださっていて。

──創業100年とのことですが、どんなスタートだったのでしょうか。

漬物を正式にはじめたのは、私の曽祖父になりますけど、正岡子規先生と交流があったそうです。そのころ、正岡子規先生は病気で臥せってましたので、うちからも山菜なんかを送ってたんですね。あるときには精を出してもらいたいってことで「クマの肉」を粕漬にして送ったようで。宅急便もない時代でしたので、肉を持たせるには漬けないと駄目ですよね。そこで酒粕に包んで運ばせたという手紙も残っています。

──冷蔵庫もクール便もない時代だから保存するには漬けるしかなかったんですね。

曽祖父から祖父の代になると、現在の湯沢町の一角をうちが開拓することになりまして。開拓地を農場にして野菜や山菜を育てはじめたんです。農場には若い人たちが勉強する農学校のような側面もありましたので、そこで採れた野菜を世に売り出していきたいという思いもあって「山家漬」が生まれました。新潟の有名な文人である会津八一先生が名付けてくれたのですが、山家集を書いた西行が見て来た景色と、この土地の山の恵みのイメージがつながって「山家漬」としてくださったのかなと想像しています。山家漬のパッケージは今も当時のままなんですけど、裏を見ると「今成農場製」と書いてあります。「今成漬物店」ではないんですね。

──パッケージにも物語が詰まっているんですね。

それから大阪の高島屋本店で売り出したんです。そのときなんですけど、雪国は冬に雪に埋もれるからこそ、土地が肥えて山菜や野菜が美味しくなる。そのことを世の人に知っていただきたくて、高島屋のショーウィンドウで雪国の様子がわかるように展示したんです。たとえば、女の人が立っている足元に電柱の頭がちょこんと出ているようにして、それくらい雪に埋もれるんだよということを表現したり。信じられないでしょうけども、大雪が降ると雪に埋もれて2階の窓から外が見えなくなります。雪下ろしもするでしょう。すると、下ろした雪が溜まって壁になっちゃうんですね。そこにまた雪が降るから……ものすごかったんです。

──そのショーウインドウはどこかA級グルメ的ですね。

というのも、江戸時代に「北越雪譜」がベストセラーになりましたよね。鈴木牧之が雪国の生活を伝えた本ですが、その鈴木牧之のお姉さんが今成家に嫁に来ています。だから、雪国の文化に都会の人が衝撃を受けることを知っていたのかもしれません。いずれにしても雪がキーワード。この土地には美味しいものを育む土壌があるんですよね。とくに山菜に関してはもう絶対っていうぐらい、雪があるところのほうがおいしいです。

──みなさん、それをおっしゃいますね。

「アケビの芽」ってご存知ですか? アケビの芽はこの辺ではご馳走なんですよ。でも、ほかの土地では「アケビの芽なんてあったって採る人はいないよ」と言うんです。苦くて食べられたもんじゃないから食べる文化自体がないんです。でも、私たちのような雪の多い土地ではあまり苦くない。むしろご馳走としてみんな喜んで食べています。

──誕生してから現在まで変わらず受け継がれている山家漬ですが、存続の危機はなかったのですか?

漬物の危機はなかったですね。この土地は食が豊かだからかな。必要なものはぜんぶそばにあって、遠くから取り寄せる必要もないですし。去年、野沢菜を頼んでいた農家さんに跡継ぎがいないとなったのですが、その方の知り合いで代わりに育ててくださる方がすぐに見つかりました。雪国はそういう土地なんです。それに、うちも店を大きくしようとは考えてこなかったですから。

──看板もないに等しいですよね(笑)

だから、続いているのかもしれません。昔から新潟市の方や、東京の方に発送でお届けするのが基本だったので、店に看板をつけたりする必要がなくて。だからうち、はじめは店もなかったんです。

──店もなかった!

今、漬物を売っている場所は薬局だったんです。今も薬局はありますが、もうちょっと広かったんです。だいたいの事業は私の祖父がはじめたんですけど、薬剤師でもあり、裏で漬物をやり、両方やってたんですよね。だからこの辺の人は今成薬局を知っていても、今成漬物店は知らないという人もいます(笑)。うちはホームページもなければインターネット販売もやってないんですけど、お客さまの口伝いで来てくださるようになりまして。だから「何時に閉めますか」ってよく聞かれるんですけど、「お客様が19時においでになるなら19時まで開けときますよ」って、そういう感じなんですよね(笑)

──そんな今成家のぬくもりがまた感動を呼びそうですね。

私たちはここが自宅で住んでいますから、それができるんです。昔は「何時開店で何時閉店」なんて言わないような店ばかりでしたからね。店というのは、お客さまが「欲しいとき」に開けるのが基本というのは、長年の商人の家としてありますね。

──そうした哲学も受け継がれているんですね。

今成家は波乱万丈なことがあった家なので、身についた性分なのかもしれません(笑)。これは戦争が終わってやっと世の中がホッとしたころの話なんですが、うちに外務省の参事官から「ある人物を匿ってほしい」という話がきたんです。というのも、ビルマの国家元首だったバーモーさんが日本に亡命して来られて。そのころ、日本はGHQの支配下にあったので、日本政府としても困ったとは思うのですが、ひとまずうちで匿うことになりました。とはいえ、うちは目立つのでお寺で匿ったんですが……そのときはうちの人間もみんな死んだ気になってね。いつでも口を割らずに死ねるように、祖母なんか着物の襟に青酸カリを縫い付けて。うちは薬局もやっていたので青酸カリもあったんでしょう(笑)。私の母なんて嫁に来たばかりの時期にそんな目にあって、えらいとこに嫁に来てしまったと思ったはずです。

──どうして今成家が選ばれたのでしょうか?

私もなんで? と思いますが、たぶん「食べ物に困らない」ということがあったんじゃないかと思います。うちは当時、食品工場もやっていて新宿中村屋のカレー粉や缶詰が積まれていました。ビルマの伝統食がスパイシーなこともあって「なんにも物がない時代だけど今成家に行けば食べ物はある」と思われたのでしょう。バーモーさんはお寺で匿っていたわけですが、お寺では精進料理しか食べられないから、こっそりうちに来てカレーを食べていたなんて話も伝わっています。でも、バーモーさんは結局、半年ぐらいで自首をしましてね。うちの人間も巣鴨に入ることになりました。

──え、巣鴨プリズンに?

「GHQに逆らった罪」みたいなことで、半年ぐらい入ってましたね。でも、巣鴨で児玉誉士夫や岸信介といった大物と知り合いになったみたいです。というのは、私の叔父の話なんですけど、まあいろんな話が残っている面白い人なんです。

──その続きも聞きたいところですが、「山家漬」に話を戻しましょうか。山家漬には5つの野菜がありますが、ぼくは糸瓜がいちばん好きです。噛むと糸のようにほどけていく食感がおもしろくて。

糸瓜ともいいますけど、正式には「錦糸瓜」という名前です。山家漬のひとつなんですけど、錦糸瓜だけ食べたい方には「錦糸漬」も用意しています。好みは人それぞれですが、越瓜も人気ですよ。越後の瓜だから越瓜っていうんです。奈良漬によく使われるのは白瓜で品種としては近いのですが、採れたての越瓜はきれいな翡翠色なんです。

──「なすび」もありますね。

「巾着なす」ですね。変わった形のなすびで、皮はしっかり固めなんですが、うま味が濃い。ビヨーッと糸を引くぐらいねっとりしていて、普通のなすびとは違う美味しさがあると思います。あとは「胡瓜」。胡瓜はトゲがチクチクした「四葉(すいよう)」という品種も使っています。でも、今は少し足りていなくて。全体の3分の1くらいが四葉で、ふつうの胡瓜も使っています。

──細長いのは「わらび」。春しか採れない山菜も、漬物なら一年中食べられるわけですね。

わらびを粕漬けにしてるところは他にないらしく、とても珍しいと喜ばれます。たぶん、うちはこの地域の山菜をみんな漬物にしたことがあるんじゃないですかね。たとえば、パッケージをよく見ると「ウド」の絵も描いてあります。ウドは少し癖があるので途中でやめたらしいのですが。

──漬物が上手な人って、どういう人なのでしょうか?

私の祖母は漬物が上手な人でしたけど、やっぱりマメなんだろうな。桶の管理のためにしょっちゅう蔵の様子を見に行っていたといいます。何を見ているかといえば、発酵の進み具合。「ちょっと塩っぱいね」となれば「酒粕の量をちょっと増やそうか」と味を見ながら調整します。漬け替えは基本的には3回なんですが、必ずしも3回と決めているわけでもないんです。マニュアルはないので、みんなの経験の中から決めています。味も厳密にいつも同じというわけではないと思います。ただ、「美味しさの幅」というものがあって、その中に収まるようにはしています。

──その感覚を後継者に伝えるのは難しそうですね。

ものすごい秘訣があるわけではないんですよ。ただ、手間と時間がかかるんです。変な話、漬物を長くやっていますけど「ほんとうに利益が出てるんだろうか」って疑問に思うんです(笑)。でも、「美味しい」と言ってくださる方がいる。だからやる。それだけですよね。「こんなに美味しい漬物は食べたことない」というような電話をわざわざお客様がかけてきてくださるんです。そうやってお客様から励まされることを支えにして続けています。

──漬物をやっていて、どんなところに奥深さを感じますか?

最初の野菜の状態以上の味になる。そこがすごいなって思います。実際にアミノ酸やイノシン酸のような「うまみ成分」も増えていますが、それは発酵する時間の中で増えていくものであって、私たちが調味料を加えたわけでもなんでもない。蔵や木桶などの自然な物の中に酵母がたくさん住んでいて、しっかり働いてくれるわけです。同じ材料でも新しいステンレスの桶で作ったら、この味にはならないんじゃないかな。だから、木の桶をやめようとは思いません。

──いわゆる老舗の漬物屋でも木桶を使うところは少ないのですか?

よそのことはあまり知りませんが、「家の蔵で木桶を使って漬けているところは全国にもないですよ」と言われたことはあります。「見せる用」に木桶を用意しているけど、実際は工場で機械を使って漬けているところも多いとか。「だから嘘がないんです。別に見せる用意をしなくても、本当のことが当たり前としてある。それが雪国の底力なんです」と言われて。私たちも「そんなに言ってくださるなら」とまた支えにしています。

──たしかに、今成家の蔵は美味しそうな景色ですよね。

はじめは蔵をお見せするのが恥ずかしかったんです。もうずいぶんと古い蔵であちこちが傷んでますから。今の法律で新しく許可を下ろしてくださいと言ってもダメかもしれない。100年以上前からやっているから許されているんだと思います。それでも、うちの蔵で事故が起きたことはありません。食中毒や異物混入のクレームも一度もないんです。だから、最先端の桶で徹底的に管理したり、クリーンスーツを完璧に着たりすることが「ほんとうに人間の食に大事なことなのか?」と思うことがあるんです。もしかすると、その感覚が今はちょっとズレてきているのかもしれない。だから、私たちが「恥ずかしい」と思うようになってしまった。昔はうちのような蔵が当たり前で普通だった。だから「これも安全な食というものの姿なんだ」というところも伝えていけたらな、と思っています。

──最後に、人はどうして電柱が埋まるほどの豪雪地帯に住み続けてきたのか? そのことについて思うところをお聞きしたいのですが。

雪国の暮らしは過酷です。でも、やっぱり豊かなんですよね。人間にとって大事なことのひとつが食べること。衣食住の「衣」と「住」は技術でなんとかできるけど、「食」というのはその土地があって、水があって、気候があって、いろんな自然条件が揃わないといけません。雪国にはそれがぜんぶ揃っているんじゃないかと思います。だから、実は住みやすいんですよ、きっと。

──北越雪譜を読んでいても、雪の過酷さを自虐しつつも、どこか誇らしそうに書いている節がありますよね。

メリットがなければ、こんなところにわざわざ住まないですよね。新潟は明治時代まで日本でいちばん人口が多かった。それだけたくさんの人を養う食べ物があったというのは大きいと思います。新潟県の子どもの身長もずっと全国1位だったらしいですよ。子どもの成長には食べ物の影響が大きいじゃないですか。だからきっと、栄養的にもバランス良く食べられたんでしょうね。

──それほど食べるに困らない豊かな土地であるということですね。

それに、雪が降るともう辺り一面が真っ白じゃないですか。その光景に思わず涙が出るというか、心が洗われる瞬間もあるんです。都会に住んでいると景色はそんな変わらないし、雪が降っても電車が大変だなと思うくらいですけど、雪国だと雪が降った翌朝の景色はもうびっくりするぐらいの美しさ。そういう時間を持てることも幸せだなと思います。

──ずっと住んでいても、そこに感動できるんですね。

北越雪譜には雪の結晶を描いた「雪花図説」もありますけど、あんなふうに雪を見ようとすることの中にも美しさがある。雪は大変だけど良い面もあるということに、みんなどこかで気付いているんじゃないでしょうか。子どもたちなんて、雪が降るともう単純に喜んで遊びはじめますからね(笑)

人はなぜ、 これほどの豪雪地帯に 住み続けてきたのか?


それは、いかなるときも食に困らなかったという歴史が証明しているのかもしれない。

長い歴史を持つ今成家のルーツを尋ねてみると、かつては落ち武者として雪国に流れ着いたという。およそ、700年前の南北朝時代の話で、はじめは「今成」という名前も名乗れず、別の名前を名乗っていたとか。

「雲洞庵をご存知ですか? 当時、雲洞庵の挿草(さっそう)になおられた方が大将で、うちはその家来として一緒に逃げてきたそうです。だから、雲洞庵とは切っても切れない縁があって、きょうまで700年の付き合いが続いています」

その大将とは楠木正成の孫である「楠木正勝」。雲洞庵を整備したあと、お迎えに上がって住職についてもらう予定だったが、その直前に楠木正勝は病で亡くなってしまった。そのため、実際は一番弟子が初代住職になったという。そんな楠木家の経緯を踏まえて、今でも新しい住職が就任する際はまず今成家で朝食を食べて、今成家から籠に乗って出発する習わしがあるとか。

雲洞庵は「越後一の寺」と言われるほどの大きなお寺。ぜひ訪れてみてはいかがだろうか。

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