そばを打つ音、それも難易度の高い「中太」の麺を打つ音であることに気づく人はどれくらいいるだろうか。

雪国といえば「へぎ蕎麦」が有名だが、意外にも「手打ちのへぎ蕎麦」が食べられる店は少ない。が、「しんばし」は手打ちであることはもちろん、地元の蕎麦粉から自家製粉してこしらえている。語り出せばキリがないほどこだわりが詰まった蕎麦なのだ。

が、ここで語られるのは「身欠きにしんの煮付け」である。

江戸から明治時代にかけて日本海を走る交易船=北前船が日本の物流を支えていた。北海道から下関へ。そして、瀬戸内海を通って大阪へ。北海道で採れるニシンもまた干物にして日本全国へと届けられた。雪国もまた例外ではない。長期保存できるニシンの干物は、これほどの山奥にまで届けられていた。

そんな背景があるからこそ「ニシン蕎麦」は全国で食べられる。が、現在はその9割9分が既製品であるという。しかし、「しんばし」はニシンの干物を水で戻して、3日間煮込むところからこしらえている。

とにかく手間を惜しまない。蕎麦にも通ずる「しんばし」の哲学が詰まったこの一品。まずは「身欠きにしんの煮付け」を注文してから蕎麦でシメるのが、しんばしのツウな味わい方ではないだろうか。


住所:南魚沼郡湯沢町大字湯沢488-1
電話:025-784-2309
予算:2,000円〜
URL:http://www.soba-shinbashi.net

──なぜ、既製品のニシンを使わず、苦労してこしらえているのか?
しんばし・田村さんのインタビューに続く↓


──そもそもですが「身欠きにしん」とは何ですか?

ニシンという魚は、卵である「カズノコ」に価値がある。カズノコを切り取ったあとの身は、ほとんど二束三文で市場に流れるんですね。しかも、ニシンは鮮度を保つのが難しい魚。そこで、乾燥させて干物として流通させる文化が生まれたんです。雪国に海はありませんが、北前船はご存知ですよね? 雪国で盛んだった「織物」は、信濃川を下って新潟の港まで運ばれます。そこで北前船に乗せられるわけですが、そのとき、織物のかわりに魚の干物などを受け取って、今度は信濃川を上ってくるんです。そうやってニシンは雪国まで届けられたわけです。

──カズノコを取り除くと身が欠けたようになるから「身欠きにしん」なのですか?

いえ、諸説あるんですが、干物にするにあたって相当きつい乾燥をかけていたみたいで。ニシンを食べるときはまず「水戻し」をしなければなりません。つまり、しばらく水につけて生に近い状態にふやかしてから調理していくわけですが、その過程でぼろぼろと身が欠けやすいんです。だから「身欠き」というらしいです。

──この一品の、ここがA級というポイントはどこにありますか?

煮付けを作るには5日間の工程が必要なんです。はじめにニシンの干物をお米の研ぎ汁に浸して臭みを抜きながら「水戻し」をする。そのあとに「水煮」といって、3日間、朝から夜までひたすら弱火で炊いていく。2日じゃ駄目なんです。圧力鍋で時間を短縮しようとしても脂が抜けきらない。逆に4日だと崩れてしまうので、必ず3日かけて余分な脂を抜いてから味を染み込ませていく。そうしてはじめて後味にキレが出せるんです。

──たしかに、食べてみるとぜんぜん脂っこくなくてびっくりしました。

うちは「とにかく手間を惜しまない」ということを大事にしています。蕎麦も粉の状態で買って機械で打ったらすごく楽なんですよ。でも、ここでしかできないものを作りたいので製粉からやって手打ちしています。ニシンも同じで全国のお蕎麦屋さんがニシンを使っていますが、9割9分は既製品なんです。というのも、さっき言ったように5日間もニシン専用のスペースを確保することが店舗設計上、難しいんですよ。とくに都会は、客席と厨房の割合を考えたときに、どうしても客席を70%ぐらい確保することになる。残りの30%しかない厨房のスペースをニシンにあてがうことはできないんですね。でも、僕らは地方に住んでいるので、客席と同じ面積の厨房を確保できます。なので、手間と時間を惜しまなければ、この一品に懸けられる。そんな、ここでしかできないことをシンプルに追求したい。そんな「しんばし」の哲学が最も表れているのがニシンだと思っています。

──ちなみに、どこのニシンを使っているのですか?

北海道です。そういえば、沖縄と北海道って消費するものが逆なんですよね。北海道で最も生産量が多い昆布をいちばん消費するのが沖縄。逆に、沖縄が最も生産量が多い砂糖をいちばん消費するのが北海道。その土地にないものが、その土地の人々にとって大切なのは今も変わらないのかもしれません。「雪国なのにどうしてニシンなの?」とよく聞かれるんですけど、それぐらい海のものが貴重だったからです。うちの親父は今、70歳ぐらいですけど、30年前にはじめて赤い刺身のマグロを食べて感動したと話していました。つまり、雪国はつい最近まで新鮮な魚を食べられないほど山に閉ざされていたということです。

──田村さんは12年ほど前に東京から帰ってきたとのことですが、東京にいたのは蕎麦屋の修行のためですか?

いえ、和食の仕事をしていました。

──「家を継ぐぞ」ということで、戻って来たんですか?

ところが、継ぐ気はなかったんですよ。

──え、そうなんですか?

継ぐ気がないから和食の修行をしていたんですけど、あるときにうちの親父が脚のケガをして。週末だけこっちに帰って家の手伝いをしはじめたのですが、そのときに思ったんです。「親父たちはすごく貴重な仕事をしているな」って。湯沢という町はバブル時代にすごく経済成長したんです。小さいお蕎麦屋さんもみんな機械を導入してどんどん大きくなっていったのですが、うちの親父だけはずっと手打ちを続けていたんです。ニシンもそうです。5日間かけて作っていました。はじめて実家を職場として見たときに、東京じゃ真似できないことを平然とやっていて驚いたんです。そのときから家を継ぐのもいいなと思いはじめました。

──実際に継いでみると、変化はありましたか?

最初の8年ぐらいは我慢の時期が続きました。お客さんにとって親子関係の継承というのは「変化すること」にストレスを感じやすいんですね。僕もそのことをよくわかっていなくて、自分が思うとおりにどんどん変えていくと意外な反応も出てきました。だから、今はいつも来てくれるお客さんには変化を感じさせないことが大事だと思っています。でも、昨日より1%でも良くなっていないと評価は下がっていくものだと思うので、常に1%でもよりよいものを提供して、その結果として「いつもと変わらないね」という評価が理想だと考えています。

──変化という意味では、外国のお客さんもすごく多いですね。

今はお客さんの半分ぐらいが海外の方なんです。5年ぐらい前に「外国人が増えてきたな」と感じはじめたころは、うどんやごはんの注文が多かった。でも、今は外国人の9割ぐらいが蕎麦を頼んでいます。それだけ蕎麦が海外で認知されてきているのでしょう。だから、海外のお客さんにとっても、ここでしか食べられないものを出さなければいけない。たとえ、ものすごく技術のある人が海外で蕎麦屋を開いて、日本からこだわりの食材を取り寄せたとしても、さすがに水までは持ってこれない。水はその土地にしかないので、やっぱり同じものは作れないんですね。なので、僕は今の環境を大事にすることが、どこよりもいいものを作るチャンスになると思っています。

──海外に舞台を移すよりも、この土地で蕎麦を極めるほうが世界に近いわけですね。

ワインや小麦粉を使った料理であれば、石灰分やミネラル分が多いフランスの水が良かったりするでしょうけど、蕎麦を作るなら極力軟らかいほうがいい。だから、この辺に自然に流れている超軟水の水が合うんです。やっぱり、もともとある伝統食というのは、なるべくしてなっているんですね。

──しんばしの蕎麦はいわゆる「へぎ蕎麦」とは見た目からして違いますよね。

みなさんがイメージする「へぎ蕎麦」は一口ぐらいに小分けした蕎麦を丸めて盛りつけたものだと思うんですけど、丸めるためには、蕎麦を茹でたあと水に浸けて水中で輪っかにしないといけない。機械打ちの蕎麦は水に浸けても吸水しないのですが、手打ち蕎麦は吸水が早いので水に浸けると味も香りも落ちてしまうんですよ。

──だから平盛りなんですね。

うちは自家製粉した「超粗挽きの粉」を手打ちしています。超粗挽きの粉というのはカプセルのようなもので、噛むと砕けてフレッシュな味や香りが出てくる。だから、僕の願いとしてはよく噛んで口の中で味と香りを楽しんもらえたらなと思っています。

──江戸前的な食べ方よりも、ちゃんと噛んだほうがいい、と。

だからうちは麺の太さを「中太」にしているんです。細打ちにしてしまうと、一気にすすってしまうので。

──麺の切り方で料理人の意図を伝えることもできるんですね。

実は、僕がはじめたころは細い麺がいいだろうと思っていました。ようは自分の技術を見せたかったわけです。でも、やればやるほど、うちの蕎麦に合ってないことが分かって。技術的にも中太がいちばん難しいことも分かりました。意外かもしれませんが、細く打つのは簡単なんですよ。リズムさえ狂わなければ打てるんです。でも、中太の場合はリズムはもちろん、包丁の刃先の感覚がしっかりと分かっていないと難しい。うどんぐらい太ければ楽なんですけどね。太すぎず、細すぎず。何でもそうですが「いい加減」というのは、いちばん難しいんです。

──最初に聞かせてもらった音は、そんな物語が詰まった音なのですね。

僕は年間で何トンという粉を麺にするわけですけど、1回たりとも同じ蕎麦を作れたことがないです。それに、打った瞬間にすごく満足するものができたとしても、次の日にはもうただの及第点でしかない。やはり、もうちょっと何か良くできるんじゃないかとトライを積み重ねていくしかありません。ほんとうに面倒くさいものにハマったなと思います(笑)。ビジネスとして考えるなら機械で打ったほうが正解だろうなと、頭では分かってるんです。でも、手打ちの世界を知ってしまうと今ここで楽をして後悔なんてしたくありませんね。

──どうして、人は楽をして暮らせる場所に移らず、こんな豪雪地帯に住み続けてきたと思いますか?

季節の振れ幅に感動するからじゃないですかね。「豪雪」と言っても、本当に雪に閉ざされるのは1月と2月だけ。その時期は大変かもしれませんが、冬が終わった瞬間に新緑が芽吹いて、なんとも言えない生命力を感じるんです。それから夏がはじまって、いろんな農作物という自然の恵みをいただいて、美しい紅葉を迎える。そうしていると「冬の数ヶ月ぐらい我慢してもいいかな」と僕は思うんです。それに、干物や漬物などの保存文化がすごく発達していることから考えても、雪国には「自分なりに楽しむ術を見つけられた人が残ったんじゃないか」と思うんですよね。それができなかった人たちは違う土地に移ったのではないかと。

──何もなくても楽しみを見つけられる人たちが雪国に住み着いた。そして、さまざまな文化を築いた。

湯沢に関して言えば、もともと宿場町としてはじまった町。湯沢で代々生きてきたというような人は少なくて。今、住んでいる人たちも移住してきた人が多いんです。僕は地元の人間ですが、宿場町としての土地柄なのか外から来る人に抵抗がないんですよね。なので、それぐらいポジティブでいろんなことを楽しめる性格こそが、湯沢の伝統文化なのかもしれませんね。

人はなぜ、 これほどの豪雪地帯に 住み続けてきたのか?


それは、何もない場所でも自分なりの楽しみを見つけられる人たちが、この地に留まってきたからなのかもしれない。

「雪国には新緑の芽吹いた風景が好きだという人が多いんですけど、僕は逆。紅葉が終わって枯れた山が雪化粧したときに、いちばん住んでいて良かったなと感じます。毎年、山の上に雪が積もるたびに今年もまた気持ちよく水を使わせてもらえるんだなと思えるからです」

田村さんは「谷川連峰」の山並みを見て、そう感じるという。

「やっぱり水はすべての源。人間の体内の7割は水ですし、蕎麦もごはんも半分は水なんですよね。だから、どんなにいい材料を使おうが、水がダメだとぜんぶダメというのが僕の考えかた。これだけ水質のいい場所で料理ができるのは、自然環境があってこそだと思います」

この辺からは谷川連峰は見えないかと思いきや、「湯沢高原ロープウェイ」の駐車場まで行けば眺めることができる。もちろん、ロープウェイを使って上まで行けば、さらにパノラマで見渡せるはずだ。

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