この宿には、温泉に入る豚がいる。

といっても、真空パックされた豚肉なのだが。温泉の温度は68℃に保たれており、3時間、のんびりと湯治させることで、肉汁のうまみを完全に閉じ込めた完璧なローストポークができあがる。

そんな湯治豚をスライスして表面を軽く炙り、ごはんに盛り付けたのがランチの「湯治豚重」。ふつうの豚とはあきらかに違う。「しっとりしていて甘みがある」のだが、言葉では伝えきれない。食べてみると「しっとり」の真の意味がわかるはずだ。

そして、もうひとつ。これを聞いているあなたにだけ、お教えしよう。

料理長の柳さんはかつて豚肉を温泉に入れたまま、忘れて帰ってしまったことがあった。翌日に気がついたときには既に時遅し……ではなかった。24時間、茹で豚になった湯治豚を食べてみると肉がホロッホロ。これもまたブっ“豚”で美味いのであった。

あなたが訪れた日に24時間の湯治豚があるかどうかは運次第。量が少ないため、食べられない可能性のほうが高いはずだが、気になる人はこっそり尋ねてみてほしい。

3時間にしても、24時間にしても。ガスでコトコト煮込んでいればコストがかさむはずだが、そこは松之山温泉。放っておいたらできあがるのだからおもしろい。ちなみに、湯治豚はお土産などが存在しないため、松之山温泉でしか食べられない。


※ランチのみ
住所:十日町市松之山湯本49-1
電話:025-596-2525
予算:1,500円〜

灰汁(アク)は悪ではない、うまみの詰まった肉汁だった。
──ひなの宿ちとせ・柳さんのインタビューに続く↓

──「湯治豚」とは何ですか?

松之山温泉は90℃を超える温度で自噴しています。そこから地下を通って各旅館に配湯されるまでに70℃くらいまで下がります。つまり、私どもの宿でも湯口から70℃のお湯が出るわけですが、そこに豚が入る調理槽を置いています。だいたい68℃に保たれるようお湯の量を調節しているんですが、そこに真空パックした豚肉を3時間入れておくとローストポークができあがるんです。

──「湯せん」に近いイメージでしょうか。

豚肉はほぼタンパク質です。タンパク質は70℃を超えると繊維と水分が分離しはじめます。水分とはつまり肉汁です。繊維が固まって収縮することで肉汁が出ていってしまうわけです。そうならないように真空パックで調理することを「低温調理」といって、しっとりしたローストポークになるんです。

──湯治豚は切るときれいなピンク色ですね。

牛肉でいえば、「ロゼのようで美味しそう」と思われるような色合いです。そのまま食べてもしっとりして美味しいんですけど、豚肉は焼いて食べるイメージがあるものですからピンク色では抵抗のある人もいます。なので、表面だけ直火で炙っています。中まで火を通してしまうと同じように水分分離してパサパサになってしまうので。

──A級グルメたる理由は、どういうところにありますか?

地元の銘柄豚を使っているのはもちろんですが、温泉を使っているところが一番でしょうね。ガスや電気などの化石燃料を使わずに温泉熱の、この土地ならではのエネルギーを使って調理していますので。

──90℃もの高温で自噴する温泉自体が珍しいですよね。

普通に火傷する温度ですからね。約1千万年前に地殻変動によって閉じ込められた海水がマグマによって熱せられているそうです。

──それだけ熱いと「しゃぶしゃぶ」にはできないんですか? 真空パックが必要なのでしょうか?

温泉を舐めてみると分かるんですけど、塩っぱいんです。化石海水といわれるだけに海水と同じくらいの塩分がありまして。それだけならまだいいんですけど、えぐみがある。私もここで生まれ育ったものですから、小学校の自由研究などで、温泉でごはんを炊いたり、温泉を煮詰めて塩にしたり、いろいろと試してきたんですけど、まぁ、まずかったですね(笑)。

──松之山温泉は「日本三大薬湯」と言われるくらいですから、成分が独特なんですかね。

いろんなミネラルと鉱物が豊富なんです。温泉を使って何かを作りたいという人は多かったのですが、なかなかうまく使えない状態が続いていて。そんな中、低温調理の技術が普及してきたので、それから2~3年かけて試行錯誤しながら「68℃で3時間」という結論に辿り着いた感じです。牛肉や鳥肉もいろいろ試してみたんですが条件は変わってきます。

──「妻有ポーク」を使っているとのことですが、この辺で育てている豚なんですか?

十日町市と津南町を含む越後妻有地域で育てている豚です。「妻有ポーク」の最大の特徴は脂身で、融点も32℃と体温よりも低いので、口の中で自然にとろけて甘みと旨みが広がるんです。たとえば、和牛は口の中で溶けるような感覚がありますよね。あれは脂の融点が低いからです。手で触っただけでも手の温度でヌルヌルになるほどです。

──雪国で育った豚だから融点が低くなるんですか?

それもあるかもしれませんね。豪雪地帯として名高い越後妻有は全国でも稀少な「PRRS(ウイルス感染による豚の感染症)」の清浄地域なんだそうです。ウイルスがいなければ抗生物質は必要ない。妻有ポークは子豚のころから抗生物質を与えずに、栄養バランスに気を配りながら大切に育てられているんです。その妻有ポークの中でも私どもが使っているのは「越乃紅(こしのくれない)」と呼ばれる特別なもの。お肉屋さんがいい豚を選んで、さらに数週間、熟成させた豚肉なんです。豚を選び抜いているので生産量が少なくて、食べれられる店も少ないのですが、うちではそれを使わせてもらっています。

──豚肉は熟成させるとどうなるんですか?

熟成させると豚肉の中に牛肉のような霜降りといいますか「サシ」が入ってきます。そうすると、より脂の融点が低くなりますし、食べたときにしっとりする。美味しさは歴然だと思いますよ。脂の甘みがかなり感じられますから。

──食べてみると、まさに「しっとり」で驚きました。

肉のうまみがそのまま残っていますよね。肉汁を外に逃がすことなく中に留めていますので。悪く言えば、豚肉の臭みが残っていると思われるかもしれませんが、そこは、いい豚肉を使わせてもらっているので。そもそも、よくアクが出ると言いますけど、アクというのは99℃を超えて沸騰したときに肉汁が茶色い泡のようになって固まること。つまり、沸騰させなければアクにはならないんです。湯治豚は70℃を超えないので、肉汁はうまみのまま豚肉の中に残ります。

──屁理屈を言うようですけど、機械で68℃に設定したお湯の中に入れるのとでは、やっぱり違うんですか?

違うんです。と言いたいのですが、同じです。でも、CO2を発生させる化石燃料を使わずに、この土地ならではの温泉エネルギーでやっているところが大きな違いです。

──そうか、だから最初にそうおっしゃっていたんですね。

日本の決まりでは「25℃以上の湧水」であれば「温泉」と言えます。温泉にはA級、B級というようなランクはありませんが、松之山温泉は温度だけではなく、いろんな数値をオーバーしすぎているぐらい、ちょっと行き過ぎた温泉なんです。

──ここでお仕事をされていると、どんなことに気付かされますか?

高校を卒業してから、15年ぐらい修行のためにこの地を離れていたのですが、あらためて帰ってきて思うのは、山の恩恵です。きちんと目を向けるといろいろなものが食材として使えるし、大きく考えれば観光資源としても使える。同時に大変な部分もあらためて感じました。たとえば、冬の生活。まだまだ安心していられないほどの雪の量で、まさに豪雪です。

──人はどうして、こんな豪雪地帯に住み続けて来たと思いますか?

冬に苦労したとしても、春の山菜や、初夏の緑を見るころには食べきれないほど資源が豊富になるんです。だから、冬の難儀を忘れるのだと思います。忘れなければ住んでいられないです(笑)

──松之山温泉の子どもたちはあまりの豪雪ゆえに、隣町の学校に通うために下宿していたという話を聞いたことがあります。公共の交通機関が完全にあきらめるほど、道が雪で閉ざされていたんですよね。

今は温泉を利用した「消雪パイプ」が通っています。道の真ん中から温泉熱で温められた川の水が出てきて雪を溶かしてくれるんです。でも、消雪パイプができたのは数年前の話。それまでは年に一度は80cmの雪が積もる。それも一晩で。そういう日があるんです。ふだんは早朝5時ごろに除雪車が来て、出勤や登校前には道路が綺麗になっているのですが、80cmも積もった日は終わらない。除雪車は他の地区もまわらないといけないので、最低限だけ除雪して「またあとで」となる。下手すると、身動き取れないままお昼になっちゃうんですよね。あと、私が子供のころの記憶で印象があるのは、冬は温泉街の旅館がみんなお休みなんですよ。誰も来ないというか、お客さんが来られないので。

──温泉街といえば冬が稼ぎ時なのに?

物理的に来れないので開店休業するしかありません。雪も積もらせっぱなし。玄関を出ると、道路の前は2mぐらいの雪の壁でした。大人たちは麻雀大会をしょっちゅうやっていましたね(笑)

人はなぜ、 これほどの豪雪地帯に 住み続けてきたのか?


それは、人は忘れられる生き物だからかもしれない。

湯治豚の背景となる風景は聞くまでもない。せっかく松之山温泉に来たのなら、あなたも湯治して帰るといいだろう。日帰り入浴なら温泉街にある「鷹の湯」か、少し離れた場所にある「ナステビュウ湯の山」のどちらかだ。

いずれにせよ、建物に足を踏み入れた瞬間に「なんだこのにおいは!」と面食らうはずだ。よくある硫黄臭ではない。いかにも効きそうな「クスリ」のにおいがするのだから。

「石油のにおい」という人もいるが、それもそのはず。松之山温泉はおよそ1000万年前の「化石海水」だと言われている。つまり、地下に閉じこめられた海水が長い年月をかけて熟成した、いわば石油の前身のような温泉なのだ。

では、松之山温泉はなぜ熱いのか。

日本の温泉のほとんどが火山型であるが、松之山の近くに火山はない。にもかかわらず、なぜ、90℃にもなるのか。その理由は地下3,000mもの深さから噴き出しているから。地下深くでは「松之山ドーム構造」と呼ばれる圧力釜のような環境となり、その温度は140℃にもなるという話も。それが、ほんのわずかな地層の裂け目から一気に上昇してくる。地下水と混じりあうこともないため、高温も冷めやらないまま、地上に噴き出しているというわけだ。

さて、そんな松之山温泉に浸かってみると、さらに驚くことになるはずだが、続きは、あなた自身の身体で体験してもらうとしよう。

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