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月下獨酌(巻三)
中庭月淨樹陰稀。風度桂花香滿衣。 聞坐涼棚酌樽酒。最憐杯底浴淸輝。
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訳:中庭には月が清らかな影をつくっている。 風が運ぶキンモクセイの香りで、私の衣はいっぱいになった。
涼み台に座って樽酒を酌めば、盃の底が滑らかに輝いているのが、胸が痛くなるほど愛おしい。

ここではお殿様の歌を添えながら、庭を紹介してきた。
小さな庭園の小さな詩。
あなたはこの庭で、何を感じただろうか。樹木の揺れる音や、水紋、アメンボの動き。ささやかで美しいものに意識を向けたのではないだろうか。そのほとんどは、暮らしの中でも見つけることができるものだったかもしれない。忙しく生きていると通り過ぎてしまい、なかなか気にとめることがないけれど、本来ならば日常的に目にしているはずのものたち。
眺める、とは、ピントを合わせる行為だといえる。焦点を連続させる行為でもあり、ひとつのことをぼんやりと眺める行為でもある。色々な焦点をもちながら眺めることで、自分との距離がわかってくる。自分の身の回りを眺めることで、自分とその対象との境界線を溶かしていくこともできる。
京極高朗は眺めるということにとても長けており、日常の中に美を発見できていた人なのではないか。
庭とは、ひとつのことを眺める場所。ひとつひとつを愛でて、意識を向けることができる場所とも言える。仰々しいものはあえて置かれてない。だからこそ小さな音や匂い、命に気づき愛でることができる。この庭は日常を見つめ、私たちを取り巻くあらゆるもの「万象」への感度を高めるための場所として、継承されてきたともいえるだろう。
非日常的な空間でこそ気づくことができ、浮かび上がってくる日常の美がある。ある意味、日常の美しさに目を向けるのは、非日常的行為ともいえる。
それは旅という行為も同じ。旅という非日常で気づくのは日常への学びであることが多い。たとえば旅先であれば、夕日をわざわざ眺める。でも本来、夕日は日常的にある。その美しさを知った旅人は、それを非日常の思い出とすることもできるし、日常に生かすこともできる。
庭での気づきを、あなたは旅の経験とするのか。それとも日常にも活かすのか。
万象の森は、そんな問いを私たちに投げかけてくれる。




「知らない土地で漫然と行程を消化することだけが旅行だと考える人がいる。(略)旅行先のエキゾチックさを眺めるのをおもしろがる旅行者もいる。
旅行先での出会いや体験を楽しみにする旅行者もいる。

一方、旅行先での観察や体験をそのままにせず、これからの自分の仕事や生活の中に生かして豊かになっていく人もいる。人生という旅路においてもそれは同じだ。
(略)何事も明日からの毎日に活用し、自分を常に切り開いていく姿勢を持つことが、この人生を最高に旅することになるのだ。」

『超訳ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)より。

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