かつて沖縄島を走っていた軽便鉄道は、線路幅が狭くて、車体も小ぶり。「けーびん」という軽やかな名前で呼ばれ、人々から親しまれていた。
1914年から1945年までのわずか30年ほどしか使われなかったが、沖縄のおじいさんやおばあさんの中には、「若い頃、けーびんに乗っていた」という思い出を持つ人も少なくない。もちろん駅から乗るのが決まりだが、やんちゃな子どもたちは途中で飛び乗ったりすることもあったらしい。学生たちの通学にも使われ、列車の中で生まれた恋の話などもあったそうだ。
路線図からは当時の人の移動や物流のルートを知ることができる。最初に開通したのが与那原線だ。与那原は中部や北部から資材を運ぶ船の停泊地。与那原線は、北部で切り出された木材や木炭を消費地である那覇・首里へ運び、那覇からは生活物資を載せて北部に届ける役割を担った。当時、製糖工場があった嘉手納線の貨物部分にはサトウキビがどっさり。各路線ともに貨物はサトウキビが最も多かった。ちなみに全路線で乗客数が最も多かったのが那覇駅で、次に与那原駅、3番目は学生が多く利用した安里駅だった。
残念ながらこの軽便鉄道、戦争で壊滅し、復旧することはなかった。軽便鉄道が走っていたルートは主要な道路となり、21世紀に入ってゆいレールが開通するまで、市民の足はバスや自家用車が支えていたのだ。