東山:借景ってなんだろう?

伽藍石から東を向けば、庭の外に東山が見える。東山は京都のランドスケープを形成する連峰で、北の比叡山から南の稲荷山までを指す。無鄰菴はこの東山連峰のうちの南禅寺山を借景にしており、景観の中心にこの山を据えている。

「借景」とは山や森など、庭園の外部の要素を景色の一部として取り入れたもの。庭園の外部と内部の空間が呼応することで、よりスケールの大きな景色を演出する。それは、自然の造形のもとに、人間が作った庭園が成り立っていることを肌で感じることができるしかけだ。

施主の山縣有朋は、無鄰菴の作庭意図を明確に「東山を主山とする」と、庭師七代目小川治兵衛に伝えている。これが冒頭で伝えた無鄰菴が国の名勝である1つ目のポイント。

有朋は「此(この)庭園の主山といふは喃(のう)、此(この)前に青く聳(そび)へ(え)てゐる(いる)東山である。」と言い、東山の借景を庭の最も重要な要素と位置付けた。また、外周には当時庭木としては珍しかったモミの木を50本程度並べて植え、本当の山中のような景色を意図的に庭の中に作り出すよう指示した。

ここで少し、施主有朋と七代目小川治兵衛の関係について触れておきたい。

無鄰菴のある岡崎地域は、明治28年に第4回内国勧業博覧会(今でいう万博)の会場となった。それに合わせて建てられた平安神宮の神苑を手がけたのが、若干34歳の七代目小川治兵衛。屋号は植治。山縣有朋も、この若手の庭師に自身の庭を任せることにした。しかし、有朋の注文は古典的な庭造りの教育を受けた七代目小川治兵衛にとっては度外れなものだった。

例えばモミの木は、当時は庭木として流通していない樹種だ。植木を買いに行っても売っていない。そんなものを「50本集めてきてほしい」と言われた若き庭師はさぞ困ったことだろう。また、当時日本庭園では「取り除くべき雑草」とされていたシダをあえて「水際に植えてほしい」と言う有朋のオーダーにも驚いただろう。

有朋は良い庭を造らせるために、小川を母屋で一番庭が見える座敷にあげて「客が見る目線から見なくては良い庭が作れないぞ」と教えたという。

齢60歳の元勲から座敷にあげられた若手庭師は、さぞ緊張したことだろう。有朋の並外れた思いが伝わり、七代目小川治兵衛も、この庭で存分にその才能を発揮することとなった。小川はきっと、借景の取り込み具合や庭園内との連続性を伽藍石から確認したことだろう。

さて、話題を庭に戻してみよう。東山を景色の中心に据え、庭園との連続性を生み出すために、どのような技法が使われているのだろうか。

まずは母屋の手前に向けて築山を大きく盛り上げ、東山の形に呼応して庭の中まで地形が反復しながら連なっている印象を持たせている。そしてその築山は母屋から見ると奥の池を隠している。なぜなら池は借景を望むには必要がないから。歩いていくうちに見えてくればそれで良い。そして、築山に据えた石は低く、視線を止めることなく東山に導いてくれる。

そこにあるサツキの低木もしかり。有朋は、視線を止めることのないように「低く地を這うように剪定すべし」との注文を出している。庭外周の木は中央を若干下げて、東山の大きさを強調しつつ、庭園全体の鋭い三角形が作る印象を緩和するように、スカイラインの最も低い部分を敷地の突端から若干北へ向けて外している。

すべての造形には意図がある。同様に、この庭も無作為の作意に満ちている。

ところで借景を形作る外周の高い樹木は、毎年1メートルほど伸びるが、それを放っておいたのでは庭の根幹をなす借景が消え去ってしまう。これでは名勝としての手入れとは言えない、つまり常に伸び続ける樹木を、適切な高さに抑え続ける庭師が、今日までこの借景を守ってきたのだ。そんな事実を一切主張しない自然なスカイラインをぜひご堪能いただきたい。

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