せせらぎ:シェアする疏水とは?

ここで無鄰菴が名勝である2つ目のポイントに移りたい。それは目の前の「躍動的な琵琶湖疏水の流れ」だ。目の前にある流れは、自然にできた小川のように見えるが、もちろん庭園なので人工的に作られたもの。

この流れを庭内に引き入れられた理由は、内閣総理大臣や内務大臣を務めた山縣有朋が政治家として生きた時代と深いつながりがある。キーワードは「琵琶湖疏水工事」だ。

琵琶湖疏水工事は明治時代の最新技術を駆使し、莫大な予算をかけた一大公共事業だった。琵琶湖から京都に安定的な水源を引くことはかねてからの洛中の人々の夢であった。実は江戸時代、幕府と大変近しかった南禅寺の境内地は無鄰菴も含む広大なものだったという。その敷地の約70%が明治新政府の上地令で接収にあい、新政府はその土地に疏水を流し工業地として利用する計画を推進した。

琵琶湖疏水工事は、当時、東京に首都が移ったことから行われている。主要消費者層であった公家が京都から移動し、経済的に勢いを失った京都を近代的なインフラ整備により再度盛り上げようと行われたことだった。

疎水は農業用水としての用いられるほか、当時の計画では水力で直接水車を回し、南禅寺旧境内地の疏水沿い一帯を工業地化する予定だった。しかしながら疏水工事中に、水力発電の技術が国内に導入され、水車の動力ではなく、発電所を設けて送電が出来るようになり、岡崎地域に工場を集中させる必要がなくなった。

結果、工業地化を免れた南禅寺界隈は、その後高級別荘地として開発されていくことになる。これが世に言う南禅寺界隈別荘群の始まりである。その中で最初に建てられた別荘がこの無鄰菴。疏水工事に許可を出した内務大臣山縣有朋その人の庭である。

琵琶湖疏水の歴史的な重要性がおわかりいただけたかと思う。さて、次にこの庭園内で琵琶湖疏水の流れのおりなす造形的な特徴を説明したい。まずは、母屋の前の流れの深さに注目してほしい。

小川はあえて水深を浅くして、水面の波が際立つように設計されている。途中には瀬落ちと呼ばれる小さな段差を設けて水面が波打つように設計された。こうすることで水面は光り、せせらぎの音が聞こえるようになる。

まるでずっと前から流れる自然の小川のようなこの造形も、もちろん自然をお手本に人の手によって作られたもの。その出来栄えには目を見張るものがある。

冒頭で少し触れたが、近代以前の日本庭園はおおむね海の景色を参照して造られた。伝統的な作庭法を用いた平等院や天龍寺の庭の水の使い方は、浄土や禅の思想がやってきた大陸の景色を、海の表現とともに表している。しかし、近代に入り、別荘という個人の所有する空間では、海よりも川の流れる山あいの景色が参照されるようになった。

明治時代には、日本人の原風景あるいは理想の風景が「白砂清松の海の景色」から、「小川の流れる里山の景色」にとって代わった時代と言ってもよいだろう。従って、無鄰菴の流れの表現も海ではなく、川あるいは渓流を模して造られている。そういうわけでこの躍動感ある流れこそ、無鄰菴が名勝である2つ目の理由となる。

ちなみに無鄰菴を通った流れは、暗渠(地下に設けた水路)を通って隣の庭園にそのまま流れていく。無鄰菴の次はお隣の料亭の「瓢亭」へ、そして祇園へ向かう白川へ合流する。濁りがそのまま隣に流れていってしまうため、そうじをするときにはお隣にご挨拶をしてから行う。ご近所づきあいが色濃く残る京都らしい話である。

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