母屋と縁側:「無鄰」の由来とは? 亭主にまつわるエピソード

せっかくなので母屋の座敷に靴を脱いで上がってみよう。ここではどうぞごゆっくり、腰掛けてガイドを聞いて欲しい。

無鄰菴はかなり大きな邸宅。それもそのはず、先ほど紹介したとおり明治時代の軍人・政治家である山縣有朋の別邸だったから。ここでは無鄰菴の持ち主、山縣有朋について紹介したい。

有朋は松下村塾に学び、明治期の西南戦争で政府軍の指揮者として活躍した。その後、伊藤博文とともに明治政府の最高指導者となり、内閣総理大臣も歴任している。いわば、明治前期の日本を牽引した人物だ。

有朋は生涯に3つの無鄰菴を所有している。1つ目は長州・下関の草庵であり、現存はしていない。2つ目は京都・木屋町二条に購入した別邸で、現在は庭が部分的に残るレストランとなっている。3つ目がここだ。無鄰菴という名前は最初の草庵時代に有朋がつけたもので、周囲に民家がなかった(隣家が無い庵)ことに由来する。

有朋は庭好きで、生涯に10以上の庭を造った。現在ホテルになっている東京の椿山荘は有朋の東京本宅だ。無鄰菴の庭もそのひとつで、有朋が指示して作らせた。

彼は明治維新後にヨーロッパ各地へ視察に出かけていた。日誌や記録には残っていないが、その時見た庭園が彼に影響を与えたと考えるのが自然だろう。また、有朋は明治時代に書かれたルポルタージュの中で、それまでになかった新しい庭を造ることを、はっきりと語っており、芝やモミの木などを明確な庭園観のもとに取り入れたことが良くわかる。

無鄰菴をぐるりと取り囲むモミの木は、有朋の希望で取り寄せられた。当時の日本にもモミの木は自生していたが、有朋のオーダーは50本。この数を確保するのは難しく、施工を担当した七代目小川治兵衛も苦労したようだ。造園されたとき、時代は文明開化。西洋の文化や技術に学び、日本が大きく変化した時期だ。有朋が西洋風の庭にこだわったのは、そんな時代背景もあったのだろう。

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