明智光秀は、本能寺の変で織田信長を討ち取った人物として知られています。これまでは「逆賊」という悪い印象を抱かれる人物だったのではないでしょうか。
明智光秀の名前が歴史に明確に登場するのは、永禄12年、西暦にして1569年のことです。光秀の生まれた年についてはいくつもの説がありますが、享禄元年(1528年)とする説を取るならば、歴史に初めて登場したころの光秀は41歳。それ以前の人生は謎に包まれています。生まれた場所についても、いくつもの異なる説があります。ただし、美濃の守護であった土岐氏の流れをくんでいることだけは確かと思われます。土岐氏の一族であるとすれば、光秀は美濃国、つまり現在の岐阜県で生まれ育ったと言えるでしょう。
光秀の青年時代、美濃国を治めていたのは、斎藤道三という人物でした。道三の戦術や政治を、若き日の光秀はその傍らで見ていたのではないでしょうか。その後、一度は故郷を追われた光秀ですが、足利義昭の臣下となり、永禄10年(1567年)ごろに再びこの地を訪れたと考えられます。このころ光秀は、足利義昭の後ろ盾となりうる強力な武将を探していました。その候補として挙げられたのが、新しい美濃国の支配者・織田信長だったのです。
さて、これから始まるガイドは、光秀が故郷の地を再び踏んだ時代が舞台となっています。岐阜の支配者、道三や信長から、光秀はどんな影響を受けたのでしょうか。光秀を題材とした物語は数多くありますが、その一つとしてご紹介します。それでは、光秀とともに、岐阜城やその城下町を散策してみましょう。
【解説】岐阜市歴史博物館の2階に開設された「麒麟がくる 岐阜 大河ドラマ館」では、ドラマのメイキング映像や衣装、小道具などのほか、ドラマのストーリーにまつわる歴史博物館収蔵品を見学できる。この博物館の建っている場所そのものが、織田信長に近い家臣団の屋敷地であったと考えられている。私たちと同じように、名だたる武将たちがこの場所から岐阜城を見上げていたのかもしれない。