今でも目に焼き付いている。岐阜城……いや、かつては稲葉山城と呼ばれたこの城。そこから眺めた、この国の美しい姿。今は亡き道三様は、私を城に連れていくたびにこう言った。「美濃を制するものは天下を制するのだ」と。

斎藤道三様の父上は、御所の警護を担う「北面の武士」の血を引く家に生まれたという。幼くして京の寺に入れられたが、還俗して商人となり、この美濃国へやってきた。お父上は、この美濃の守護・土岐氏の重臣であった長井長弘殿に認められ、商人の身から武士となって頭角を現し、やがては長井氏の姓を引き継ぐまでになったのだ。

北に連なる山々。そのはるか先に越前という国がある。私が美濃を追われてたどり着いたのは、その越前だった。そしてまた、道三様の父上が、当時の守護・土岐頼武様を追いやったのもまた、越前だった。頼武様を追放した後、道三様の父上は、頼武様の弟である頼芸様を後継者の座に据えたのだ。さらに道三様とその父上は、大恩人であるはずの長井長弘殿を、頼武様と密通したという罪で殺してしまった。実権を握っていた長弘殿が邪魔になったのだろう。恩人にすら容赦なく噛みつく。これが、道三様が「美濃の蝮」と呼ばれるようになった始めである。やがて道三様は、守護代の家柄である斎藤氏の姓を名乗るようになった。

越前へと追いやられた頼武様のご子息・頼純様は、京の六角氏や越前の朝倉氏と同盟を組み、頼芸様の守護の座を脅かさんとした。天文5年(1536年)、頼芸様と道三様は、頼純様を大桑城の城主として認め、どうにか和解を図ったのだ。

稲葉山城から真北に見える山々の尾根の中に大桑城はある。ここからは、その城の姿は稜線に埋もれて確認できない。しかし、大桑城からは、こちら側の城は丸見えだ。知恵のはたらく道三様は、もしかすると頼純様をこんなふうに納得させたのかもしれない。「真の国主にふさわしいのは大桑城にございましょう。常にこの稲葉山へにらみを利かせられるのですからな」と。

大桑城城主となった頼純様は不審な死を遂げた。道三様によって密かに消されたのだろう。さらには、自ら守護へと押し上げた頼芸様までも、道三様は美濃から追放してしまう。そうしてついに、国主の座に着いたのだ。


【解説】司馬遼太郎の小説『国盗り物語』では、斎藤道三は一代で、僧侶から油売りの商人へ、さらには武士に身を変えて、美濃国をのっとるという姿が描かれている。一人の身で「商人」と「国主」という人生を歩んだというのがこの物語の道三の魅力ではあるが、近年の研究では、道三とその父親「長井新左衛門尉」の二代による国盗りであったという説が有力だ。大河ドラマ『麒麟がくる』でも、この親子二代説が採用されている。
天守から見える風景の東西南北を知るには、階段上部の天井に設置された盤が役に立つ。干支の「子」の方角が北だ。現代のランドマークは、天井の四方に設置された写真の案内板で確認できる。当時の風景と重ね合わせて想像していただきたい。たとえば、長良川の沿いに見える「長良公園」は、かつて土岐氏の守護所「枝広館」の跡地である。
なお、今回のガイドでは「東の風景」は紹介していないが、そちらの方角には光秀が生まれたと言い伝わる可児市や恵那市がある。

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