道三様は稲葉山の山麓から東西に道を開き、城下町を造った。その道のひとつがこの百曲通だ。もともとは、大桑城の城下に住んでいた町民を連れて来て造らせたのだ。そしてここを、大桑城の城下町の代わりに「大桑町」と名付けた。大桑城は、土岐頼純様が城下町を開き、頼芸様も居城とされていた城……。その城を道三様は焼き払った。そうして美濃の守護・土岐氏は、道三様の手によって没落したのだ……。
私には、土岐氏の血が流れている。いくら頼芸様が国主として無能であり、道三様をより尊敬していたとしても、なにか割り切れないものがある。
土岐氏は、清和源氏の流れを汲む武家だ。そもそも武士の始まりは、軍事を担った貴族であり、天皇から賜った姓を名乗った。源氏や平氏、藤原氏などがそれである。源氏を名乗る武家は、祖とする天皇別に21の流派に別れている。清和源氏はそのうちのひとつで、清和天皇を祖とする支族なのだ。
さて、時代が下るとともに、同じ姓を名乗る同族は増えていく。次第に多くの武士は、根付いた土地の名で呼ばれるようになった。例えば、同じ源氏であっても、足利を本拠とするなら足利氏を名乗り、新田に根付くならば新田氏を名乗った。同様に、美濃国土岐郡土岐郷(現在の土岐市)に居住した源氏が、地名をその姓として「土岐氏」となったのだ。
【解説】上大久和町は、かつては大桑城と同様に「大桑町」という漢字が当てられていた。現在、大桑城は「おおが」、上大久和町は「おおくわ」と読まれているが、当時は同じ読み方をしていたのかもしれない。大桑城のある山県市にもまた、明智光秀生誕の地という言い伝えが残っている。さらに、大桑城跡から5キロほど離れた中洞には、光秀の墓と言われる桔梗塚が残されている。