かつて、川手城(別名:革手城)という名の城が、ここからさらに南にあった。土岐頼康様が文和2年(1353年)に築城されてから、最後の土岐氏の守護・頼芸様の代まで本拠地として使われていた。この川手城が造られたとき、城の北に建立されたのが正法寺である。土岐氏の氏寺であり、木造の薬師如来像をご本尊としていた。永禄4年(1561年)に寺は焼亡したというが、果たしてご本尊はどうなったのか……。まさに土岐氏のごとく、時代の渦に飲まれかき消えてしまったのだろうか?

土岐氏の家紋は、桔梗の花だ。白と黒ではなく、白地に水色、または水色の地に白抜きで表す。土岐一族の祖・光衡様は、野に咲く桔梗の花を兜の前立に差して戦い、見事大勝利を収めたという。それから桔梗の花が家紋となった。「桔梗」という漢字の木偏を取って、つくりだけを残せば、「更」に「良」しとなる。そんな縁起も担いでいるのだろう。土岐氏の流れを汲む明智家も、この桔梗の紋を引き継いでいる。

時代が下るとともに、土岐と名乗る一族も美濃全土に広がっていった。源氏が土岐氏と名乗り始めたのと同様に、土岐一族も美濃各地の地名を姓とするようになる。支族は百家を超えた。中でも「奉公衆」、つまり室町幕府の直臣を務める20ほどの家は別格とされる。そのひとつが、明智家だ。


【解説】現在の正法寺は、光秀が生きていた時代には存在していない。開山は天和3年(1638年)の江戸時代。日本三大仏と称される岐阜大仏は、第11代の惟中和尚の発願によって文政12年(1829年)に建立された。度重なる災害による被災者の菩提を弔うため、惟中和尚は托鉢によって浄財を集めた。周囲1.8mのイチョウを真柱として木材で骨格をつくり、表層は竹材を編んだ上に粘土を塗った。さらに、経典が書かれた美濃和紙を貼って漆を塗り重ね、その上に金箔を張っている。
この大仏の中に胎内仏として納められているのが、かつて川手城の北にあった土岐氏の氏寺・正法寺の本尊だと言い伝えられている。

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