二之丸庭園の南側にはかつて御殿があり、代々の尾張藩主、つまり、名古屋城主の住居兼政府として使われていた。藩主は、今でいう知事のような存在なので、自宅兼県庁といったイメージかもしれない。

江戸時代の武家のしきたりでは、正式な訪問客はまず茶室に通されてお抹茶が振舞われ、その後で藩主と謁見する流れとなっていた。知事に会いに行くと、まずは応接室でお茶を出されてから知事室に呼ばれる、と言った感じに近い。また、大切なお客さんのためにお茶会を開催することもあった。そのため、武士は粗相がないように茶道を教養としてたしなみ、お城には御数寄屋(もしくは御茶道)と呼ばれる茶事を取り仕切る専門部署もあったほど。

この地域にいた尾張藩士たちが嗜んだのは、主に「有楽流」という、織田信長の弟である織田有楽斎が始めた武家茶道の流派。有楽斎は千利休に茶道を学び、信長の死後は、秀吉や家康にも仕えた茶人。有楽流は刀を帯同したまま御点前ができるように工夫されているなど、武士に親しみやすくなっているのが特徴だった。

そんな名古屋城において、大のお茶好きで有名だったのが12代城主の徳川斉荘(なりたか)。この斉荘公、実は尾張藩出身ではなく、幕府が指名して外から来たお殿様で、嗜むお茶も有楽流ではなく裏千家流。代々クラシック音楽を愛好してきたのに、急に大のジャズファンが現れたような、そんな違和感が名古屋城には漂っていたかもしれない。斉荘公は、藩内での茶道具造りを推奨するだけでなく、自らも作陶し、幕府から「いいかげんにしろ」とたしなめられるほどお茶会三昧の暮らしをおくったとされる。そのおかげで、現在でも、多くの美術館で斉荘公にまつわるお茶道具を見ることができる。

二之丸庭園には、名古屋市民のお茶好きを象徴するものがある。それが、二之丸茶亭に展示されている「金の茶釜」。実はこの茶釜、戦争中に焼けてしまった天守閣の金鯱の焼けのこりを、戦後、金の茶釜(と市旗の竿頭)に作り直したもの(のレプリカ)。名古屋城のシンボル、金鯱を茶釜にしてしまうあたり、尾張の人のお茶好きはやはり相当なものだ。毎週金曜日には、この金の茶釜で点てたお抹茶をいただくこともできるので、ぜひ立ち寄ってみて欲しい。

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