「朝昼夜に加え、1日に何服ものお抹茶を飲んだ」という名古屋経済界の重鎮、古川爲三郎。生前、爲三郎が住んでいたお気に入りの邸宅で、近代の財界人たちの茶の湯に思いをはせてみよう。
茶の湯はもともと、武士の間で主に嗜まれていたが、江戸時代に入り、世の中が安定すると、名古屋では町人の間にも広まっていく。あまりの熱中ぶりに、時には幕府から禁止令が出たことも。中でも、財力のある豪商たちは、京都からお茶の先生を呼んだり、お茶会を開いたりして、お茶を広めるのに一役買った。このころから根付いているお茶の文化が、名古屋の喫茶店文化の原点にあるという説もあるほどだ。
明治以降も、新興の経済人たちの中には、茶の湯に傾倒する人は多く、彼らは「数寄者」と呼ばれた。有名なところでは三井物産創設者の益田孝やパナソニックの松下幸之助なども数寄者だった。最近では、アート作品の購入や宇宙開発などに投資する経営者の話がニュースで流れたりするが、ひと昔前は、その対象が茶の湯であることが多かったのだ。この時代の数寄者たちは、明治への移行により、財政の厳しくなった元大名や武士たちの持っていた茶道具や美術品に加え、茶室を含む建築物を買い集め、茶室の取り壊しや茶器の海外への流出を防いだ。移築された茶室が多いのにも、こうした背景があった。
古川美術館の創設者、古川爲三郎は、若い頃から商才の頭角を現し、ヘラルドグループなどを立ち上げた名古屋経済界の重鎮で、自身でお茶を点てることはまれながら、毎日、お気に入りの邸宅でお抹茶をいただくことを習慣としていた。茶事を催せるよう設計された風情のある邸宅内には、美しい庭園に面した広間「ひさごの間」「大桐の間」のほか、小間の「葵の間」「太郎庵」、庭園にある「知足庵」があり、邸内各室が茶席として使用できる。いずれの部屋も細部まで凝った造りになっている。
茶室は「俗世から離れた幽玄の空間」とも言われるが、今回紹介したスポットのなかで、これを一番体感できるのが、この古川美術館の分館爲三郎記念館だろう。少し行けば車が多数行き交う大通りがあり、周囲に高層ビルがあるにも関わらず、敷地内に入った途端、静寂と清々しさに包まれる感覚をぜひ味わってほしい。
邸宅内では、庭園を眺めながらお茶をいただくことができる。本館で爲三郎の美術コレクションを楽しんだ後、風に揺れる木漏れ日や木々の音を感じながら、静かにお茶を味わう。なんとシンプルで贅沢な時間だろう。忙しなく働き、世間体に惑わされる現代の私たちこそ、こうした空間が必要なのではないだろうか。