果て無し、その名にふさわしい絶景が待っている。世界でふたつしかない道の世界遺産で、誰とも出会うことのない巡礼の旅へ。

ハア、ハア、ハア……。こんなに息が荒れるのは、いつ以来だろう。日ごろの不摂生と運動不足を痛烈に自覚しながら、急峻な山のなかに木や石で作られた簡素な階段をひたすら登る。僕たちは、十津川村の温浴施設「昴の郷」に車を停めて、登山道から「熊野参詣道小辺路」(くまのさんけいみちこへち)に入り、峠の上にある「果無集落(はてなししゅうらく)」を目指していた。

まず、小辺路について簡単に説明しよう。世界に2つだけ、世界遺産に認定されている「道」がある。ひとつは、フランスからスペインにかけて約800キロに及ぶキリスト教の巡礼路「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」。もうひとつは、熊野三山に通じる約200キロの「熊野参詣道」いわゆる熊野古道だ。

熊野古道のなかでも、真言密教の聖地、高野山から熊野本宮大社にいたる全長72キロの道が「熊野参詣道小辺路」。十津川村を縦断するように走るこの小辺路の道中にあるのが、果無集落である。

果無集落を目指すなら、山の麓から通じている道路があるから、わざわざ小辺路を歩く人は多くない。でも、山道を歩きながら、江戸時代やそれ以前の時代を生きた人たちのことを想像するのは、思いのほか楽しかった。例えば、「昔の人はみんな、草履でここを歩いてたんだよな」とか「女の人はどんな服装でここを歩いてたんだろう。まさか着物?」とか。

答えのない妄想をしながら小辺路を歩くことおよそ30分、真冬なのに噴き出してくる汗をぬぐっていたら、パッと視界が開けた場所に出た。そのまま少し歩みを進めて、今しがた歩いてきた石畳の道を振り返ると、目の前には大きな空が広がり、眼下には緑濃い山々が連なっていた。外国人旅行者が「世界の上に立ってる気分」と評したというこの場所が、「天空の郷」とも称される「果無集落」だった。

なぜ、「はてなし」という名がついたのか。果無集落出身で、十津川村役場で定年を迎えた後、ガイドをしている岡修一さんが、名前の由来について、いくつかの説を教えてくれた。

「私が一番有力だと思っているのは、紀伊半島を東西に貫く山脈の尾根にあって、果てがないから果無という説ですね。江戸幕府が作った地史にも『谷かすかにして峰遠し、よりて果無といわく』と書かれています」

もうひとつは、歴史にまつわる物語。1331年に鎌倉幕府打倒を掲げて乱を起こすも、失敗して隠岐に流された後醍醐天皇の息子、護良親王が果無集落のあたりまで逃げてきた。その時に、逃げても逃げても追われて「果てがない」ということで、名付けられた説。

「というのも、南方熊楠が柳田邦男に宛てた手紙のなかで、果無峠の途中にある安堵山を紹介していて、護良親王がここまで逃げた、もう安心やと安堵した山だと書いています。明治時代にも果無と護良親王の関係が語られていたんですよ」

ほかに、ある作家が著書のなかで紹介している説もある。「一本だたら」というお化けがいて、普段は人を襲わないけど、「果ての20日」にだけ人を襲う。果ての20日とは12月の20日のことで、その日には人が道を歩かなくなる。果ての20日に人がなし、それで果無。しかし、岡さんは「聞いたことがなかった。本で初めて知りました」と話す。

どの説が正しい由来なのか判断する術はないけど、実際に集落に足を踏み入れ、あたりの景色を見渡すと、肌で感じる。「果無集落って、言い得て妙だな」と。

それにしても、世界遺産の道が村の中央を突っ切っている集落は日本でほかにないだろう。峠の上にある小さな集落だから、小辺路が集落のメインロードで、その脇に家が建ち、畑がある。平安時代から、この道を人が歩いていたと想像すると不思議な気分になる。実際、江戸時代から明治にかけて、かなりの人が小辺路を歩いていたと推測されるそうだ。

「元禄2年(1689年)に、蕉門十哲の一人といわれた向井去来という俳人が、『つづくりもはてなし坂や五月雨』という俳句を残しています。つづくりとは直すという意味で、この道を直しているが、果てがないという内容です。この俳句の前言葉には、『大和と紀伊の境で、熊野詣をする人に道を直すための寄付を募っていた。そのお金を包んだ紙にこの俳句を書いた』とあります。道を直す寄付が集まるほど人が歩いていたということです」

明治時代には、冬場の農閑期に入ると東北からも大勢の人が来たという記録もあるという。お伊勢参りに来て、伊勢路を通って熊野三山に行った後、小辺路を通って高野山に向かったのでは、と岡さんは想像している。

しかし、いつの頃からかこの道を歩く人は減り、「50年前、私が子どもの頃にはこの道を通って果無集落に来る観光客はゼロでした」。再び、人が訪れるようになったのは、2004年に世界遺産に登録されてからだった。

その間に、果無集落も変化した。岡さんが子どもの頃には家が9軒あり、50人以上が住んでいたそうだが、最寄りのコンビニまで60キロ、水が止まれば山のなかを1時間歩いて水源地に確認に行かなければならないこの集落を離れる人が絶えず、今は住民が14人ぐらいで高齢化も進む。僕らが訪れた時、集落には人の気配もなく、時間が止まったようだった。

でも、決して廃れた雰囲気ではなく、小辺路やその周辺にゴミひとつ落ちていなくて、静けさのなかにも美しさを感じる。岡さんによると、住民が「いっぱい人が来るし、汚くはしておけん」と、集落の掃除を欠かさないそうだ。景観を保つために、自動販売機も置かない。だからだろう、村の静寂がむしろタイムスリップ感を演出してくれる。かつては旅籠だったという言い伝えもある立派な古民家の前には、旅人の渇きを癒すように竹筒から水が湧き出ている。これも、昔からあるものではなくて、古民家の住民が作りつけたものと聞いた。

もしかすると、こちらから聞かなければ明かされないこれらのさりげない気遣いは、平安時代から数えきれないほどの旅人を迎え入れてきた集落で、自然と受け継がれてきたものなのかもしれない。道を守り、人を守り、村を守る。そんな心意気を感じる場所だ。

岡さんにお勧めの季節を訪ねると、「春」と即答した。その時期の写真を見ると、集落の枝垂桜や路傍の花が咲き、畑の作物が青々として、まるで桃源郷のようだった。

「本当の無音が体験できる」という夜も気になる。外灯もなく、峠の上にある集落だから、星空との距離も近いはず。雑音が一切しない“音無し集落”から星を眺める時、どんな気持ちになるのだろう。

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