あなたも手で温泉を掘ってみないか? 世界でたぶんひとつだけの“川に飛び込める温泉”と、消えた温泉をよみがえらせた男の物語。

気持ちいい、とか、ゆったりくつろげる温泉は日本全国に数あれど、お湯につかる前からワクワクする温泉は稀だろう。十津川村を流れる上湯川の河川敷にある上湯温泉は、脱衣所に入った瞬間に「おお!」と歓声があがる、世にも珍しい露天風呂である。

まずはその立地が、ユニークだ。透明度の高い清流の上湯川と露天風呂の間を遮るものがなにもない。だから、わずか数メートル先で川の水がとうとうと流れる様子やせせらぎの音が、ダイレクトに見えて、聞こえてくる。最前列の客席のことを「かぶりつき」と言い表すけど、この温泉は上湯川にかぶりつき。

しかも! 川に面した男湯は湯舟が大きい。幅約4メートル、長さ約15メートルある長方形の湯舟は、ちょっとしたプール。屋根もないから、その解放感はスペシャルだ。

それだけじゃない。男湯には湯船と河原をつなぐ階段がついていて、いつでも自由に河原に降りることができる。体がほてってきたら、階段を降りて、ひんやりと冷たい川の水に浸かるのだ。源泉かけ流しの温泉と清流の交互浴、想像するだけで極楽気分。

女湯からは、さすがに川に降りることはできない。でも、洞窟のなかにあるような雰囲気で、趣がある。男湯より一段高い位置にあるから、窓からの眺めも格別だ。ここの泉質はとろみが強く、肌がしっとりスベスベになると評判で、「温泉から出た後も化粧水がいらない」という女性の声もある。

ところで、なんとワンコイン(500円)で入ることができるこの露天風呂、ある人が私財を投げ打って造ったことはあまり知られていない。その人の名は、乾敏志。なぜ、乾さんが上湯温泉の露天風呂を造ることになったのか。どうして、温泉が今の魅力的なデザインになったのか。その理由を説明するために、乾さんの人生を振り返ろう。

十津川村の山のなかで生まれ育った乾さん。小学生の時には朝6時に起きて、2時間かけて通学していたという。このエピソード、本人から聞いたわけじゃない。乾さんの半生が描かれた漫画に載っていたのだ。

え、漫画? そう、漫画。詳しく書くと、釣り雑誌『鮎マスターズ13 別冊つり人 Vol.130』に掲載されている。その雑誌の表紙に大きく掲載されている写真は、30代半ばの乾さん。子どもの頃から釣りに夢中で、大人になってから鮎釣りの全国大会で3度の日本一に輝いた。その際に取材を受けて、これまでの歩みが漫画化されたのだ。人呼んで、「十津川の川太郎」。

「釣りは最初、親父の後ろについていくわけやんか。小学校1、2年の時に鮎釣りはようできへんから、手伝いをするんよ。それでだんだん要領を覚えていくわけや。それから自分の釣り竿を持って、この川でアユ、アマゴ、はいじゃこ(オイカワ)を釣るようになってね。子どもの頃、夏は毎日この川で遊んでたわ。それぐらい、川が好きやったんよ」

上湯川が遊び場だった乾さんと仲間たちにとって、温泉は身近なものだった。上湯川は、今も昔も手で少し穴を掘るだけで、温泉が湧いてくる稀有な場所。川遊びをして体が冷えてくると、即席の温泉を作り、温まっていたのだ。河原にはかつて村営風呂もあり、地域の大人たちにとっても憩いの場だったという。

その後、近所の旅館が村営風呂を運営するようになったが、高校生の時、両親が上湯川のすぐ近くに引っ越していたこともあって、この温泉はなじみの場所だった。建設と電機設備の仕事を始めてからも釣りに没頭していた「十津川の川太郎」にとって、上湯川はホームリバーだった。

だから、2011年の紀伊半島大水害で上湯川の露天風呂があらかた流されてしまった後、近隣の人や被災前からの常連客に「再開せんのかな?」と聞かれるたびに「俺に聞いてきてもわからんで」と答えながら、「どうにかならんかな」と思っていた。

大水害から6年が経った頃、思い切って旅館に再開の意思を尋ねたら、「うちではもうしません」と言われた。その瞬間、「それはもったいない!」と思った乾さんは、旅館の許可を得て、再開に向けて動き出した。

「2011年に潰れたままやったから、流木とかで荒れ放題でな。うちの職人と一緒に、重機を河原におろすために道を通すことから始めたんや。風呂を造るのに2カ月ぐらいかかったな。女風呂は残っていた施設を活用したけど、男風呂は自分が入りたいように作った。費用はぜんぶ自腹や」

2017年7月に完成すると、朝7時に来て温泉の準備をした後に本業の仕事に向かい、夕方に仕事が終わってから温泉の片づけをして、ひと風呂浴びて帰るのが乾さんの日課になった。さらに、土日はオープン時間の9時から17時まで、受付をしている。

改修した後も雨は厄介で、一昨年は5回も川が増水し、そのたびに浴槽が土砂で埋まって重機でかき出した。昨年は1回だけだったというけど、大変なことには変わりない。

この仕事量を見ると入湯料金ワンコインでは割に合わない気がするけど、乾さんにとって、上湯温泉はあくまでボランティア。儲けやコストパフォーマンスを気にする様子はまったくない。

「増水して土砂で埋まっちゃうのはしょうがないよ。そんなん覚悟の上やから。土砂が入ったら、うちの職人4、5人で1日かけて掃除してしまうしな。その時は本業の仕事はストップやけど(笑)、お客さんが来るといろんな知り合いもできて楽しいしな。岩手とか大分から来る人もいるんやで。それにお客さん、いっぱいお酒持ってきてくれるんや」

私費を投じて立派な露天風呂を造り、補助金ゼロで、儲けも出ない価格で運営する。その心意気はどこから来るのかと考えたら、ふと思いついた。自分の蔵書を並べて私設図書館を開く人は、きっと無性に本が好きで、本の面白さを知ってもらいたいという思いがあるはずだ。同じように、上湯川を愛する乾さんは、地域の人や旅行者に魅力を共有したいという思いで続けているのではないか。

広々とした湯舟のなかでそんなことを考えていたらのぼせてきたので、川に入ることにした。季節は1月、しかも雨。川の水は叫びたくなるほど冷たかったけど、温泉に駆け戻ればキンキンに冷えた身体が急速に温まって、それはそれで気持ちいい。

どうせなら、と、誰かが河原に穴を掘ってつくった浅い温泉にも浸かってみた。湧き出るお湯は少し熱いくらいで、川の水と混ぜるとちょうどいい。数十センチ先を流れる川を見ながら、野湯に入る。かつて、これが地域の子どもたちにとって日常だったとは、なんて豊かな少年時代だろう。都会者もその日々の一端を体験できるのが、上湯温泉なのだ。

Next Contents

Select language