本殿に続く三つの橋は「過去・現在・未来」を表しているというが、橋を渡りながら道真の生涯に思いを馳せてみよう。

学者の家系に生まれた道真は、5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩を書いた。その神童ぶりは宮廷で噂になり、18歳の若さで国家試験を突破。23歳で成績トップとなり、33歳で学者の最高峰まで昇りつめる。外交にも駆り出され、大陸からお客さんが来たときは即興で漢詩を詠んで感心させるなど、その文才を遺憾なく発揮した。

42歳で讃岐国の指導者として赴任。貧しい農民の声に耳を傾け、飢饉の年はいち早く米蔵を開いた。天皇からの信頼も厚く、京都に戻った道真は異例の昇進を果たしていく。同時に、そんな道真を恨めしい目で見つめる人がいた。時の権力者であった藤原氏の藤原時平である。

あるとき、天皇は藤原時平をナンバー1(左大臣)とした上で、菅原道真をナンバー2(右大臣)に抜擢する。そして「あとは二人に任せたぞ」と言うかのように引退をする。が、その天皇こそ道真を異例の昇進に導いた人物。後ろ盾をなくした道真を見て、時平は画策する。そして、道真を左遷に追い込むのである。

ところで、上から見ると漢字の「心」のような形に見える心字池。参拝者は心字池にかかる太鼓橋を渡って本殿に向かう。水の上を通ることには身や心の汚れを清める意味がある。

菅原道真はなぜ左遷されたのか?

一説によれば、左遷の理由はこう示されている。「学者という身分で昇進した恩を忘れ、前の天皇に媚びへつらい、新しい天皇に反逆して別の天皇を立てようとした。」はたして、本当なのだろうか。

ここで、道真の性格を想像してみよう。道真は、勉強漬けの日々をのちにこう振り返っている。「時間が足りなくて、友人との談笑を絶ち、妻子とのふれあいも絶った。」また、こうも言っている。「学者の嗜みとして琴を習ってみたが、こんなことに時間を使うのなら、やはり作文をするほうがよい。」一節から断定することはできないが、ストイックでセンシティブ。どちらかといえば内向的で、まわりを寄せつけない孤高の人だったのかもしれない。

それでいて、相手が誰でも言うべきことは言ってしまう。たとえば、讃岐国にいた道真は「こんなことで政務をボイコットするなんて藤原氏の恥になりますよ」というような手紙を藤原氏に送っている。誰もが口を出せない立場にいた藤原氏に、である。生真面目で政治家として世渡りがうまいとは言えない。そういった性格が災いしたのかもしれない。

さて、あなたはどう思うだろう。道真が書いたとされる文章は現代に多く残されている。その言葉を探り、あなたなりの道真像を想像してほしい。

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