道真の亡骸は牛車に乗せて運ばれた。では、牛車はどこからやって来たのか。ここである。この場所に道真の住まいがあったからだ。

道真の太宰府での生活は悲惨であった。与えられたあばら家は雨漏りがして、食べる物にもひと苦労。眠れぬ夜が続き、脚気や皮膚病、何より望郷の念に悩まされた。

しかし、救いはあった。ある日、道真が追っ手に追われて近くの民家に逃げ込んだとき。その家にいた老婆はとっさの判断で、道真を“もろ臼”の中に匿ってくれた。それから老婆はなにかと世話を焼いてくれるようになり、道真が梅が好きだと聞けば、梅の枝を添えて餅を差し入れてくれた。これが「梅ヶ枝餅」の起源と言われている。

この場所にはその老婆=もろ尼御前の社がある。太宰府天満宮がたいせつにしている秋のお祭りは「神幸式」。そのとき、太宰府天満宮の本殿から道真の御霊(みたま)を乗せた神輿は、「どんかん道」を通って、この榎社にやってくる。そして、もろ尼御前の社の前で神輿をおろして儀式をする。神幸式は、道真が生前にお世話になった“もろ尼御前”にお礼を言いにいく祭りでもあるのだ。


※もろ尼御前は現在は「浄妙尼」と呼ばれている。

菅原道真は太宰府でどんな暮らしをしていたのか?

道真の太宰府の生活は悲惨であった──そう言われているが、実際はどうだったのだろう。

蹄の破れた馬に乗り、船尾の壊れた船に乗り、長い旅路を終えて、この場所に辿り着いた道真。そのときの気持ちを「輿を降りると、野次馬の目に晒されて、吐き気をもよおすほど胸はむかつき、疲れて足も立てないほど」と吐露している。

やがて、あばら家を修理して暮らしはじめた道真だが、「罪人として追放された身分ならば」と自らに謹慎生活を課して「都府楼はわずかに瓦の色だけを見る。観音寺はただ鐘の音だけを聞く」とつぶやくのである。

ただし、ひとりぼっちではなかった。道真の左遷には幼子2人が同行していたし、太宰府には道真のかつての教え子も役人として赴任していた。彼らと再会する機会もあっただろうし、道真に対する給料もわずかながら支給されていた。道真の詩にも「わたしは京都で没落した姫様が浮浪者のようになっているのを見たことがあるが、お前たちは父親と一緒で、不自由ながら食べ物も寝る場所もあるのだから、幸せだと思わなくてはいけないよ」という言葉が残されている。

しかし、そう呼びかけた幼子の1人をじきに失い、京都に残してきた妻も死んだと便りで知る。そして、ついに道真も京都に帰ること叶わず、この地で没してしまう。

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