朱雀門は朱雀大路の始点である。ここまで来れば、朱雀大路の先に何があるのか。その答えが見えてくる。そう、大宰府政庁跡である。当時は「跡」ではなく、大宰府政庁の建物の姿が見えたはずだ──

ここで時代はさかのぼる。菅原道真が太宰府に来たのは西暦901年。それより、200年以上前の話だ。

博多の港は大陸に近いことから、古くから外交の拠点となっていた。しかし、ある事件をきっかけに拠点を移す必要に迫られた。それが、663年に起きた「白村江の戦い」である。当時、日本は朝鮮半島の「百済」と交流していたが、その百済が、唐と新羅に攻め込まれる。日本は援軍を送ったが、戦いに敗れ撤退を余儀なくされた。

「次は日本が攻め込まれるぞ」危機感を覚えた政府は、急遽、防衛体制を整える。博多に拠点を置いたままでは上陸されたらひとたまりもない。だから、三方を山に囲まれた内陸部に拠点を移したのだ。そして、唯一の侵入経路をブロックするように「水城」と呼ばれる防壁を築いた。さらに「大野城」や「基肄城」を築いて城壁で囲み、万全の準備をした。

しかし、結果的に日本が攻め込まれることはなかった。のちに唐や新羅と友好関係を築いたことで、太宰府は外交の拠点として発展していくことになる。防衛の拠点から外交の拠点へ。都市計画の方針が変わった太宰府であるが、目の前に流れる御笠川はまるであつらえたような天然の堀。外交と防衛は常に隣りあわせでもあるのだ。

太宰府は単なる「辺境の地」ではなかった。

あなたは、これより川を越えて別空間に足を踏み入れることになる。

実は、御笠川の外側は街エリアで、内側は役所エリア。川沿いに置かれた朱雀門を境にエリアが明確に分けられていた。当時はどんな光景が広がっていたのか。たとえば、道真の住まい=南館がある街エリアから、朱雀大路を歩き、朱雀門を通過して、次々と役所へ出勤する人たちの姿があったはず。都市計画など日本にはまだ珍しかった時代の話である。大宰府は平城京と同時期、あるいはそれより古くから整備がはじまっていたとされる日本でも先進的な都市だったのだ。

太宰府は菅原道真が左遷された場所。そう言われると「辺境の地」であるように聞こえるが、そうではない。逆にいえば、道真ほどの人物を左遷しても名目が立つ。それだけの価値がある場所だった。むしろ、ふつうの役人からすれば出世コースであり、太宰府は人々の希望に満ちた町だったといえよう。

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