菅原道真は「都府楼はわずかに瓦の色だけを見る」という言葉を残したが、都府楼とは大宰府政庁のこと。
あなたはまず、この広さに驚いたかもしれない。まさに、それほど大きな建物があったということだ。ただし、当時は高い塀に囲まれていて庶民は近づいただけで門番に追い払われた。屋根の上には国家の威厳を示すかのような「鬼瓦」もあり、きっと恐れ多い場所であったはずだ。
防衛の拠点から外交の拠点へ。時代はまさに平城京への遷都が進み、遣唐使をますます盛んにしようというころ。太宰府ではアジアの窓口となる都市が築かれ、中央から外交に堪えうる教養人が派遣されていた。
たとえば、大伴旅人。西暦727年ごろ、旅人は太宰府のトップとしてこの地にやってきた。きっと、この大宰府政庁で中心となって働いていたことだろう。旅人は歌人としても知られているが、こんな歌が残されている。
『大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯の風に 霧立ちわたる』
大野山に霧が立ちこめている。わたしのため息で霧が立ちこめている──これは、太宰府で妻を亡くした旅人の悲しみを友人が代弁した歌と言われるが、この場所から北の大野山を見てほしい。その稜線は現在も何も変わっていない。雨上がりの日には霧のたちなびく様子も見ることができるという。ただひとつ違うとすれば、その山の稜線に沿って「万里の長城」のような城壁が見えていたことだ。
※大野山は現在は「四王寺山」と呼ばれている。
次は、南を振り返ってみよう。この場所からは、朝鮮系の山城と中国系の街づくり、その両方を見ることができる。ただし、想像力が必要だ。
そこからM字の山の稜線が見えるだろうか。そこには「基肄城」と呼ばれる城跡が今もある。当時はその城壁も見えたはずだ。しかも、その城壁は水城や大野城の防壁とつながっていた。つまり、当時の太宰府は10km四方の防壁にぐるりと取り囲まれていたのだ。
そして、目の前にはまっすぐ伸びる朱雀大路と、碁盤の目の町並みも見えたはず。これらは平城京と同じつくりで中国式。結果的に唐に攻め込まれることはなく、のちに遣唐使を派遣して国交を復活させた日本は、長安の街づくりを学んだ。そして、平城京と太宰府の街並みはほぼ同時期に整えられた。それも、長安を半分に縮小したものが平城京で、平城京をさらに半分に縮小したのが太宰府。すべてのサイズが、ほぼ半分になっているのだ。
M字の山の稜線は「あそこまでが都の範囲」というサインでもある。唐では「天の北極にいる天帝から地上を任されたのが皇帝であり、皇帝は東西南北をおさめている」という思想があった。だからこそ、北から南をおさめる都市計画が進められ、街の南にあるM字の地形を「門」に見立てる思想が生まれた。人々は偉い人に会うためにはるか南の門から、朱雀門、南門、中門まで、たくさんの門をくぐりながら宮殿にやってくる。それが中国式の街づくりの考え方であり、それに習うことで日本が教養のある国であることを示した。そのような舞台装置こそが、当時のアジアのグローバリズムであり、言葉より早く相手と通じあうための共通言語であったのだ。