西暦730年の正月。大伴旅人の邸宅で「梅花の宴」が行われた。

当時、旅人の家には中国から伝わったばかりの珍しい木が植えられていた。「梅」である。当時の日本に桜はあっても梅はない。奈良の都でも滅多にお目にかかれない梅の木が、いよいよ花を咲かせるのだ。ならば、みんなで花見をしながら歌を詠もう。そうして、九州各地から腕利きの32人が集まった。

序文にはこう書かれている。

『初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す』

そう、日本の「令和」という元号の由来になった言葉だ。この序文に続いて32人のメンバーが順番に梅をテーマにした和歌を詠んでいく。郷愁を誘う歌も多く、奈良から遠く離れた地にいる境遇をみんなで分かちあおうとしたのだろう。だからこそ、こう言われるのだ。「梅花の宴は太宰府の先進性と辺境性があってこそ花開いた文化である」と。

坂本八幡宮は旅人の邸宅があった場所の候補地のひとつ。梅花の宴はこの場所でおこなわれたのかもしれない。

どうして梅が日本人にとっての「たいせつ」になったのか?

菅原道真は梅を愛したが、大伴旅人も梅を愛した。

実は、梅は中国から伝えられた木。唐では学問のシンボルとされていたこともあり、日本でも時代の最先端をゆく木としてたいせつに扱われた。それに、梅の花が咲くのは桜より早い。旧暦の正月に春に先駆けて咲く姿は日本人の感性に響くところがあったのだろう。

それにしても興味深いのは、なぜ旅人は5・7・5・7・7の「和歌」を詠んだのかということだ。中国由来の梅をテーマに、中国由来のルールで開いた宴ならば、漢詩を詠んでもいいはずだ。それだけの教養を備えたメンバーも揃っていた。

それでも旅人は「日本語の和歌を詠みましょう」とした。もしかすると旅人には「中国の文化を学ぶこともたいせつだが、日本の心を忘れてはならないよ」と、みんなに再認識させるようなコンセプトがあったのかもしれない。あるいは、こんな説もある。「梅」は旅人が亡くしたばかりの妻のことを暗喩しているのではないか。つまり、梅花の宴は落ち込んでいる旅人を励ますための集まりでだった。そう考えてみると和歌であることも当然なのかもしれないと思えてくる。

そして、大伴旅人が梅花の宴を開いたころ、まだ10代であった息子「大伴家持」が万葉集を編纂することになる。のちに伝説となる宴を家持はどんなふうに見ていたのだろう。

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