菅原道真は「観音寺はただ鐘の音だけを聞く」という言葉を残したが、その音こそ、この音。
新羅から学んだ日本最古の梵鐘とも言われ、日本の原点というべき鐘が太宰府にあるのも相応しいことだといえよう。この鐘が鳴るのは年に2回。大晦日の除夜の鐘と、もうひとつは「神幸式」。そう、太宰府天満宮から榎社まで神輿を担いで行く、そのときだ。神輿の行列が観世音寺の近くを通るとき、この鐘の音が千年の時を超えて道真に届けられる。
観世音寺の見どころは梵鐘だけではない。観世音寺は九州の仏教界を統括する寺として中心的な役割を担っていた。そのことがわかるのが宝蔵。太宰府のことを知らなければ「どうしてこんな辺境に?」と疑ってしまうほど立派な仏像が収められている。
おもしろいのは、仏像のほとんどが樟でつくられていることだ。樟は九州に多い木材であるが、それだけが理由ではないかもしれない。あなたは太宰府天満宮の樟を、その神々しさを覚えているだろうか? 仏像は信仰の対象である。だからこそ、鎮守の森を象徴するような樟でつくることに意味があったのかもしれない。
ある人は言う。「文化財を彫刻としてのみ見ることは、文化財の「財」のみをよろこんで、「文化」を軽視することになる」と。文化財にはそれを作った人、それを使った人、それを直した人たちの物語が詰まっているのだ。
※梵鐘は一時的に不在の場合があります
遣唐使の話をしよう。
中国への使節の派遣は西暦600年から894年まで(道真の提案で派遣されず実際は839年まで)行われた。ちょうど、これまで語ってきた時代と重なる。このころの日本は中国から最先端の文化を学んで国家の基盤を固めようとしていた。それゆえ、遣唐使の仕事は貿易をしたり、美術品を持ち帰ったりすることではなかった。むしろ、目に見えないたいせつなこと。たとえば、碁盤の目の街づくりや、その背景にある思想を学んで帰ってくることだった。
鑑真もそう。唐の鑑真は日本への航海に5度失敗して、6度目には失明していたと言われるが、仏教の大先生である鑑真に来日してもらうことが、たいせつだった。太宰府に到着した鑑真は観世音寺の戒壇院で戒律を授けた。当時は、偉いお坊さんから戒律を授かってはじめて一人前のお坊さんになることができた。はたして、どんな様子だったのか。戒壇院を覗いてみれば想像できるはずだ。そして、太宰府のこの場所からたくさんのお坊さんが生まれ、各地に散らばっていったことが見えてくる。