日本に「国立博物館」はいくつあるのか、知っているだろうか?

正解は4つ。たったの4つしかない。

では、どこにあるのか? 東京、京都、奈良、そして4つめの舞台に選ばれたのが、この太宰府。

なぜ、太宰府なのか? 大阪でも名古屋でも博多でもなく、なぜ太宰府なのか。

これまで旅してきたあなたには、ここにあるべき理由が、見えなかったことが、すでに見えているのではないだろうか。

太宰府は日本の中では辺境かもしれない。しかし、アジアの地図を広げてごらん。太宰府は扇の要のような重要な位置にある──第38代宮司・西高辻信貞

太宰府には平城京より古くから都のような街があり、古くからアジアとの窓口として栄えてきた。そんな土地の声に応えるように九州国立博物館は誕生した。その外観のフォルムはアジアから押し寄せる波のようで、ガラスには広大な空が映し出されている。太宰府が見てきた世界はアジアと繋がっているのだ。

そんな九州国立博物館の4階にあるのが「文化交流展示室」。なぜ、“常設展示”ではなく“文化交流展示”と呼ぶのか。それこそが九州国立博物館が掲げるテーマである。水城や大野城は百済から、朱雀大路や大宰府政庁は唐から。日本はアジアから学んで持ち帰ったことを独自に発展させて自分のものにしていった。それは世界中のどこの国も同じ。日本からすれば仏像は百済から学んだものだが、百済からすれば中国から学んだもの。中国からすれば中央アジアから学んだもので、さらに元を辿ればギリシャ彫刻にも行き着く。そんな道筋を辿れるのが、文化交流展示室といえよう。

ガラス張りの外観には太宰府の森も映し出されている。もともとこの場所は太宰府天満宮の敷地で鎮守の森だった。しかし、1971年。太宰府天満宮の西高辻信貞宮司は「太宰府に博物館を造ってほしい」と土地を寄贈することを決めたという。「道真公が生きていらしたらどう思うのか」宮司はきっと、そう考えて決めたに違いない。

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