大野城は、水城とともに築かれた防壁のひとつ。
大野城は約8kmの土塁や石垣を山頂に巡らせたもの。土塁で囲まれた中には倉庫のような建物の跡があり、いざというときに逃げ込んで立てこもれるほか、飢饉の備えとしても重要な場所であった。
大野城も水城も、そして、南の基肄城も。ともに百済の技術で作られたと言われている。なぜか。白村江の戦いは「百済と日本の連合軍vs新羅と唐の連合軍」の戦い。つまり、敗れた百済の人たちが日本に亡命して、水城や大野城の築城を手助けしたのだ。
大野城と基肄城は水城の翌年に作られたというから、当時の人の切迫した思いが伝わってくるようでもある。
さて、基肄城の跡地を訪れた写真も紹介しておこう。