「まめでらぎゃ?」
これは増田町の言葉で「お元気ですか?」という意味の挨拶だ。ここ横手市増田地区はかつて商人の町として非常に栄えていたという。
江戸末期から城下町として発展した増田町は、成瀬川と皆瀬川が合流する地点にあることから人と物資の往来で大いににぎわった。主な産業であった養蚕と葉タバコは秋田県内の主要産地として栄えた。ほかにも、稲作、鉱山、金融などで栄え、その豊かさゆえにアスファルト舗装をされたのも、電気が通ったのも、秋田県南で最も早かったのが、ここ増田である。
「まめでらぎゃ?」は商人町の挨拶のような言葉。「まめ」は「元気である」という意味である。ほかにも「寄ってたんしぇ(お立ち寄りください)」「見てたんしぇ(見ていってください)」という、いかにも商人らしい言葉もある。増田町の商店街は、今でも秋田弁を話せる人が少なくないので、運が良ければ「まめでらぎゃ?」の一言が聞けるかもしれない。
増田の伝統的建造物群保存地区(以下、伝建地区)は増田城跡の東側と北側を指す。そのなかの表通りの一つである中七日町通りは物流の拠点として栄えた通り。現在の朝市は1643年から始まったと伝えられ、昭和30年代まで露店がひしめき、それはそれはにぎやかだったそうだ。
商人が多い町は起業家も多い。起業するための資金を融資する銀行を、この中七日町通りの名士を含めた10人ほどで出資してつくったのが、増田銀行(現・北都銀行)だ。たった10人ほどで銀行を作ったというのだから、当時の増田がいかに栄えていたかは想像にかたくない。
この銀行設立を機に、明治後期にかけて商業が発展し、大正時代の鉱山景気がもたらした経済成長によって、増田の建物は意匠を凝らした大型の店舗兼住宅にこぞって改装される。それはいわば、この町で暮らす人たちの「成功の証」だった。彼らの繁栄がもたらした建築ラッシュによって職人の技術が飛躍的に高まり、現在も残るこの増田の町並みを形づくったのである。