「誰でも歓迎する、わけではない?」

次に現れるのが歓会門。外側の城壁、つまり外郭に造られたお城の正門だ。
両脇に魔除けのシーサーがいる。

「歓会」とは、喜んで迎えますよという意味。大事な来賓客を迎えていたのがこの門だ。喜んで迎え入れるという意味を持つこの門を潜り、首里城を訪ねた「お客さま」は、どんな人たちだったのだろう。

まずは先ほどの中国からの冊封使。王様が代替わりするタイミングといえば数十年に一度なので頻度はそう多くはないが、400人から600人がやってくる一大行事だったという。

後には、薩摩藩の役人たち。日本が江戸時代に入ると、琉球は薩摩に侵攻され、中国との貿易権を手に入れたい日本から、その後270年間に渡って、影で支配を受けるようになる。首里城の中には薩摩をもてなすための日本式の御殿が建つなど、こちらも手厚くもてなされていたと考えられる。

実は日本に開国を迫った、かのペリーもやってきている。しかし、鎖国中の日本の幕府、そして中国との関係もある琉球王国としては、欧米からの使節に会うわけにはいかなかった。守礼の国の扁額を別の扁額にかけ替えるなどして、うまくごまかそうとしたが、ペリーは国王に会おうと強引に登城してしまう。このときの琉球王国側は、彼らを接待し、のらりくらり外交で、国王に会わせずして引き取ってもらうことに成功したという。

喜ばしくない相手にも、おもてなしをすることで、不利益な争いを避ける。首里城を迎賓館のようにしつらえた、小さな島国である琉球王国は「柔よく剛を制す」ことで、国家の存続を図っていたのかもしれない。

ちなみに通用口は、久慶門といって城壁を遠回りした先にある。これについてはロングコースのガイドで紹介しているので、こちらもぜひ訪ねてみて欲しい。

Next Contents

Select language