廣福門は、これまでの石積みの門とは違い、門そのものが木造の建物になっている。かつて、この建物の中には、ふたつの役所があった。門の西側には、神社仏閣にかかわることを管理する「寺社座(じしゃざ)」、そして東側には「大与座(おおくみざ)」。
「大与座」は、出生届や死亡届の受理といった戸籍に関する業務を担当していた。現代の出生届けと同じように、士族にも生子証文を提出する義務があった。この証文には生まれた子の名前や年月日の他に、「確かにこの子が生まれました」ということを証明するために、父親の親族代表、母親の親族代表、そして近所に住む人たちで作る組織「与(くみ)」の代表者とメンバー数名が署名する必要があった。じつは、当時「勝手に士族になりすます」なんて事件も多かったため、それを防ぐためでもある。「大与座」は、士族間の財産争いの解決なども担っていた。
廣福門の周囲は、役所機関として、役人たちが出入りし働く活気のあるエリアだったと考えられる。しかし、この門の中は現在、空っぽになっている。じつは、首里城の復元チームは当時の様子がわかる資料が見つかっていない部分については、憶測で復元をしないというポリシーを持っている。いまだに、建物内部を伝える資料は見つかっていない。そのため、門の中は復元されていないのだ。これらの資料は、今なお研究が続いている。