西のアザナからは那覇の港が見える。港からは琉球王国から中国の皇帝に貢物を届ける船、進貢船が出ていた。この船の役割は貢物を届けるだけでなく、交易をすること。中国は自分たちに朝貢する国々だけに、東アジアで交易をする権利を認めており、朝鮮・ベトナム・タイ・マレーシア・インドネシアなどが参加していた。地理的に中心に位置する琉球はこの交易で大きな利益を得ていたのである。
進貢船の派遣は、琉球が薩摩の支配下に入ってからも続いた。この頃に作られたのが「旅行心得之条々」。つまり公務で渡航する者の心得。これは琉球から中国に行く人が現地で琉球について聞かれたときの受け答えを記した想定問答集だ。ここには鎖国中の日本に支配されていることを隠し通せるようにと考えられたやりとりが記されている。渡航が終わったら速やかに首里王府に返却するようにという一文が書かれていて、これを作った首里王府が情報管理にも気を配っていたことが伺える。
中国との関係が良好であることは、日本に完全に組み込まれないためにも重要なことだった。中国に来ている他の東アジアの使節団も交流し、海外情勢を知る琉球王国は、鎖国中の日本にとっても無下にできない存在だったのだ。琉球の役人たちはその強みを生かすことで、独立性の高い国家を目指した。小さな島国の役人だからこそ、国際人として、たくさんの国と繋がりを持つ。いつの時代も情報を持っている人は強い。ひとりの琉球の役人が琉球・日本・中国、3つの国の為政者に会っていたという記録も残っている。