世を継ぐ。その名の通り、王の代替わりのときに重要な役割を果たしたのがこの門。前代の国王が亡くなるとこの門から新しい国王が城に上がったのだ。明治政府からの首里城明渡しに応じた琉球王国最後の国王が、城を出ていくときにくぐったのも、この継世門だったと言われている。日本が開国し明治維新を迎えると、廃藩置県が行われた。この流れの中で琉球王国も沖縄県として日本に統合されたのだ。
沖縄県となった後、首里城はどうなったのだろう? 王城としての役割を失った首里城は、しばらくは明治政府の陸軍の駐屯地となり、その後は小学校を含む各種学校の仮校舎などに利用されていた。しかし建造物や遺構が荒廃し、大正時代にはやむなく解体撤去が決定。そのニュースを解体開始3日前に新聞で知った琉球文化の研究者たちが大慌てで政府に掛け合い、間一髪で取り壊し中止となり、戦前の国宝に指定され、本格的な修復が始まるという逆転劇もあった。
しかし太平洋戦争が始まると、激しい砲撃にあい、首里城は消滅してしまう。敗戦後、首里城跡地には琉球大学のキャンパスが建てられた。首里城の大規模な復元が始まったのは、琉球大学のキャンパスの移転が決まってからのことだった。
実は琉球王国の時代にも首里城は3回焼失し、その度に姿を変えながら建て直されている。今の首里城にいたるまでには、琉球王国時代の改築と、その後の大きな変遷を経てきたのだ。