琉球王国時代、首里と那覇は、どうつながっていたのだろう?

金城町石畳から続く石敷きの坂道を上っていくと、再び首里城にたどり着く。この道は「真珠道」と呼ばれている。16世紀初め頃に造られたと言われ、琉球王国時代の主要な道路の一つで、有事の際には、いち早く首里城から那覇の港に駆けつけられるよう、軍用道路としても使用された。守礼門の東南脇の石門(いしじょう)から識名、国場、真玉橋などを経て小禄までいたる道だ。

ところで琉球王国の時代、小高い丘にある首里に対して那覇は海に囲まれていたということをご存知だろうか?
那覇の古地図を見ると、西の大部分は島々が点在する海だった。最大の島は「浮島」と呼ばれ、そこには中国から移住した人たちの村や冊封使が滞在する迎賓館があった。冊封使節団や、進貢船が出入りする旧那覇港もあった浮島は、琉球王国時代の貿易センター。那覇の中心だったといわれている。

ではその那覇までは、どうやって移動していたのだろう? 真珠道を通るルートは、首里城から町を南下し、島々にかかる橋を渡って、浮島と那覇港を挟んだ対岸、現在の小禄辺りに続いていた。一方、浮島へは「長虹堤」と呼ばれる海を埋め立てた長さ1キロの海中道路が作られていた。今の地名でいうと、安里と首里を結んでいたと考えられている。ちなみにこの長虹堤、かの葛飾北斎が「琉球八景」として美しい絵を残している。

かつての那覇は、埋め立てが進んだ現在の那覇の街とは、全く異なる姿だった。信じられないなら、那覇バスターミナルに行ってみよう。そこに仲島の御石(なかじまのうふいし)と呼ばれる岩がある。岩の下の部分が凹んでいるのは波に削られたから。そこがかつて海だったことの証なのだ。

Next Contents

Select language