能の間の襖を彩る「極彩色梅匂小町絵図」には、小野小町の生涯が描かれています。白いシルエットで表されているのが小町です。ちょうど中心のあたり、頬を染めて山道を歩いている男性が、深草少将です。ピンク色の衣装を着ているのは、はねず踊りの子どもたち。子どもたちに囲まれている晩年の小町は、なんだか幸せそうです。
襖絵の三枚目の下の方に、黄緑色の鸚鵡(おうむ)と小町、そして男性が、同じポーズをとっている姿が見えます。これは「鸚鵡小町」と呼ばれる伝説を題材に描かれています。
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小町が仕えた第54代天皇・仁明天皇の時代から時は流れます。第57代・陽成天皇(ようぜいてんのう)のころのお話しです。陽成天皇は和歌を愛する方でした。世に栄える歌を集めて歌集を作ろうとお考えでしたが、肝心の歌が集まらず、頭を悩ませていたのです。そこで思い出したのが、かつて宮中で一世を風靡したという小野小町のこと。「聞けば百歳を超えて存命というではないか、何か良い知恵を得られるかもしれない」と考えた天皇は、新人の大納言・行家(ゆきいえ)に自分の詠んだ和歌を持たせ、「その歌に対する小町の返歌を聞いてくるように」と命じました。歌の出来によっては、彼女を再び宮中へ迎え入れるつもりだったのです。
小町のもとを訪ねた行家は、みすぼらしい老婆となったその姿にぎょっとしました。天皇の歌を手渡すと小町は喜びましたが、老眼となったその目は、すでに文字を読むことさえもできなくなっていたのです。行家は老いた小町のために天皇の歌を読み聞かせてやりました。
雲の上は ありし昔に かはらねど
見し玉だれの うちやゆかしき
「雲の上のような宮中は、あなたが仕えた昔と変わらない。かつて見た美しき玉だれの内側が恋しくはないか」
聞き入っていた小町は言いました。
「なんてありがたい御歌でございましょう。老いた私にはもはや歌など作れませんが、それでは失礼でしょうから、ただ一文字を返歌といたしましょう」
行家は、あきれて言いました。
「不思議なことをおっしゃいますな。歌とは三十一文字を並べてさえ、心を伝えるのが難しいものです。それなのにあなたは、帝への返事を一文字で済まそうというのですか?」
それでも小町は引き下がりません。
「いえいえ、とにかく『ぞ』の一文字をお返しくださいませ」
「『ぞ』の一文字とは、一体どういうことでしょう?」
「では、帝の御歌の『うちやゆかしき』を『うちぞゆかしき』と詠み変えてごらんなさいな」
雲の上は ありし昔に かはらねど
見し玉だれの うち「ぞ」ゆかしき
「雲の上のような宮中は、私が使えた昔と変わらないのですね。かつて見た美しき玉だれの内側が恋しくてなりません」
なんと、きちんとした返歌となっているではありませんか。行家は驚いて言いました。
「このような技法は古くからあるものなのでしょうか」
小町は答えました。
「これは『鸚鵡返し』というのです。鸚鵡という、人の言葉をそのまま返す鳥にちなんだ技法なのですよ」
小町の和歌の才能は、百歳を超えてもなお衰えてはいなかったのです。