晩年の小野小町が、どこでどのように歳を重ね、どんなふうにこの世を去ったのか。それを裏付ける史料も何ひとつありません。後世の人々は、小町に哀しい老後の姿を結びつけました。「美人薄命」と言われますが、美しいまま若くして死ぬという物語は、小町には許されませんでした。かつての美しさは見る影もなく、醜く老いて孤独と貧困の果てに亡くなったという物語が多く残されています。
随心院に残る晩年の小町の像は、「卒塔婆小町坐像」と呼ばれています。老いたその顔に、絶世の美女と呼ばれた面影を追うのは至難の業かもしれません。その表情は、もの悲しくも見えるかもしれませんが、悲壮感はありません。むしろ、なにかを悟りきった、ほほ笑みのようなものが感じられます。
この像の名前と同じ、『卒塔婆小町』という題の能があります。その物語の世界にご案内いたしましょう。
*
あるとき、高野山の僧が京の都を目指して旅をしていました。その途中で、朽ちた木に腰掛けて休んでいる老婆と出会います。百歳にもなるような、大変みすぼらしい老婆です。よく見れば、老婆の腰掛ける朽ち木は、倒れた卒塔婆ではありませんか。卒塔婆とは、サンスクリット語で「ストゥーパ」で言われる、釈迦の遺骨を納めた場所に立てられた尊い塔のこと。高野山の道々にも、道しるべとして建てられていました。
不届きな老婆をたしなめようと、僧は声を掛けます。
「これ、そこのばあさま。あなたの腰掛けているのは、恐れ多くも卒塔婆でございますよ。そこではなく、別の場所でお休みなさい」
老婆はニタリと笑い、「卒塔婆とは言われますが、文字も見えず、刻んだ像もなく、ただの朽ち木じゃあございませんか」と答えました。
「朽ち木だなんて、とんでもありません。仏様が現しになられたお体が卒塔婆なのです」
焦って言い返す僧に、老婆は平然として答えます。
「私も枯れ木のように歳を取りましたが、花のように美しく雅な心はまだ持ち合わせておりますよ。こうして腰掛けているのも、卒塔婆への手向けの花のようなものでございましょう。ところで、あなたは卒塔婆が仏様の体だとおっしゃるが、それはどういうことですか」
僧はいらだって言いました。
「卒塔婆とは、仏様が行をされ、形になされたものです」
「その形になったものとは、いかなるものでしょう」
「地、水、火、風、空でございます」
「それならば、卒塔婆も人の体も変わらない。なぜそれらを分け隔てするのでしょう。卒塔婆が仏の体だと知っているからこそ、私はここでこうしているのです」
僧はなおも言いつのりました。
「卒塔婆が仏様の体だとわかっているなら、なぜ尻に敷くなんていうまねができるのですか」
「もともと倒れているのだから、疲れた私が休むことに何の問題がありますか」
老婆は当然のように答えました。
「それは……良い事をすれば救われるという、仏の道から外れています」
「何をおっしゃるか。悪事をはたらいたことをきっかけとして、仏と縁が結ばれ救われることもあるのですよ。もともと、愚かな人間を救うための手立てとして、仏様は深い誓いを立てられたのでございましょう?」
僧には、返す言葉がありませんでした。ただ感心して、深く頭を下げました。
「あなたは一体、何者でございましょう……名をお聞かせくださいますか」
「おや、恥ずかしや。名乗れば、死んだ後は弔ってくださいますか?」
「はい、お約束しましょう。まずはその名をお聞かせください」
「私は……小野小町のなれの果てでございます」